激ダサDANCEで凍らせて

ハロプロとテニミュとその他雑記。

王子様が傍にいてくれるということ

私はくにみつくんという私の中に存在する概念が好きで、私の中にあるくにみつくんのイメージ像は常に私の傍にいる、と思っている。

この「好き」は2次元世界にjpegとかのデータとして存在している手塚国光2.5次元世界のタンパク質から構成された手塚国光を好きということとは少し外れていて、それらを含めた私が認識する手塚国光という多くの表象を私の中で都合良く歪めた「くにみつくん」が好きなのだ。

だからこれは手塚国光と手塚の夢女子の話ではなく、くにみつくんと「私」の関係性の話だと思っている。

 

中学生の頃に読んで衝撃を受け、10年程経った今でも非実在のキャラクターに好意を抱くたび、誰かを推すたび度々頭をよぎる文章がある。

2002年12月5日(木)その1

6歳の頃私が考えていたこと。あるいは責任について。

人間性」とは感情移入される能力のことであり、感情移入「する」能力ではない。
ほとんどすべてのヒト(ホモサピエンス)が人間であるのは多くの人々に感情移入されているからである。ヒトでであるだけでまずヒトは感情移入され、人間となる。
しかし、人間はヒトに限られるわけではない。感情移入されれば人間になるのだから、ぬいぐるみだって人間でありうるのである。

そう、ピエロちゃんは人間だった。私が人間にしたのである。「した」と言う言い方は傲慢だ。言い換えると、ピエロちゃんは私にとって人間として存在していた。
上に書いたようなことを私は小学校1年生ながら理解していて、すさまじい責任を感じていた。なぜなら、ピエロちゃんに感情移入しているのは世界でおそらく私一人だったからだ。ピエロちゃんが人間であるかどうかは私一人にかかっていた。これは大きな責任である。ピエロちゃんに対する責任に比べると、この意味での責任を例えば生まれたばかりの弟に感じることはなかった。私一人弟に感情移入しなくたって世界中のおそらくすべての人間は彼を人間として扱うだろうから。

私がピエロちゃんが人間であることを忘れてしまったら、ピエロちゃんはきたない布切れで構成されたくたびれたピエロのぬいぐるみに過ぎなくなってしまう。それは人殺しだと私は思っていた。私がピエロちゃんをどこかに置き去りにしてしまったらピエロちゃんを見た人間は誰一人ピエロちゃんを人間だと思わないだろう。忘れもののぬいぐるみだと思って捨ててしまうかもしれない。

そして実際私はピエロちゃんを忘れ、ピエロちゃんはどこかにいってしまった。
ピエロちゃんはいつのまにか捨てられた。殺された。
違う。私が、ピエロちゃんを、殺した。
(私が子供を産まずペットを飼わないと決めている理由の一つは、私がピエロちゃんを殺した人間だからである)。

二階堂奥歯 八本脚の蝶

これは二階堂奥歯氏がweb上に公開していた日記「八本脚の蝶」を一部引用したものである*1

「人間はヒトに限られるわけではない。感情移入されれば人間になるのだから、ぬいぐるみだって人間でありうるのである。」子供時代の二階堂氏がピエロちゃんに対して大きな責任を感じていたのと同じように、私はよりぬいのくにみつくんに対してそれはもう本当に気持ち悪いほどの感情移入をしている。

よりぬいのデザインは感情移入の対象としてあまりに完璧である。彼らは一様にデフォルメされた楕円形の刺繍の眼を持っているので、何の感情も持たないキャラクターのまっさらな器として理想的だ*2

www.movic.jp

子供がピエロのぬいぐるみを愛おしむのと違って、成人女性が男子中学生のぬいぐるみを愛おしむこの状況はこうしてはてブロで静かに打ち明けているからギリ現実世界で犯罪者予備軍扱いされていないというだけのほぼ病気みたいなものである。それでも私が手塚国光のぬいぐるみを人間と認識しなくては、手塚国光は布の塊に成り果ててしまうと本気で思った。

「2次元世界にjpegとかのデータとして存在している手塚国光2.5次元世界のタンパク質から構成された手塚国光」だけを私は好きなのではないと先述したが、別に布の塊の手塚国光を好きなわけでもない。あくまで私の妄執の対象は私の中だけに存在する「くにみつくん」のイメージだ。

誰よりも自分を厳しく律し整った顔立ちと美しく通る声を持った手塚国光と、私の部屋でタオルに包まれて24時間寝っ転がっている果てしなく怠惰な二頭身のよりぬい手塚国光に同一性を見出すことができるのは、私の脳が複数の手塚国光イメージを統合した幻覚を見ているためである。

 

私は長年2次元のオタクをしているが自分とキャラクターが何かしらの接点を持つことが極端に苦手で、作中のキャラクター同士の関係性が好きなオタクだったので、歌:許斐剛 作詞:許斐剛 作曲:許斐剛「悲しいね…キミが近すぎて」という恐ろしい楽曲の存在を認知してはいたものの歌詞を真剣に聞いたことはなかった。

しかし昨年の秋頃に手塚国光にキャラクターとしての好き以上の感情を抱きはじめた時*3この歌詞のメッセージが、許斐先生の言わんとしていることがはっきりとわかった。

この曲は、テニプリのキャラクター、恐らくは漫画のページの中に閉じ込められたキャラクターからテニプリを愛読している夢女子に向けて歌詞が書かれている。

悲しいね キミが近すぎて
この想い 伝えちゃダメだから
側にいれるだけで いつも見ているだけの
キミと物語は続いてく

いつもキミに会いたくて
でもボクは待っているだけ

1分が 1秒が 永遠に感じて
微笑むキミにただ触れられたくて

キミが近くて、ボクは待っているだけで、キミに触れられたい、とは何を表しているのか。

それはきっと、コミックスに印刷されたキャラクターは読者に物理的に近いところにいるが、キャラクターは眼差される客体から抜け出すことはできず、読者が「触れる」=「コミックスのページを捲る」ことでしか「キミ」と「ボク」は出会うことができない、という一方通行の悲しさである。

自分の生んだキャラクターに心からの愛情を注ぐ許斐先生は、キャラクター達が多くの人に愛や希望を与える一方で、読者からキャラクターへの感情が一方通行である悲しさも、自分の描いたキャラクターが紙面の中に(時にはVRライブやミュージカルの舞台上に)閉じ込められているという悲しさも、敏感に感じ取っていたのだと思う。

この歌詞を初めて真剣に聞いた時、私は「八本脚の蝶」のピエロちゃんのエピソードを即座に思い出した。テニスの王子様のキャラクターはファンがキャラクターを一人の人間として認識することではじめて、誰かに光を与える王子様になれるのだと思った。

 

「悲しいね…キミが近すぎて」にはキャラクター達が歌うカバーver.も存在しているのだが、カバーver.は許斐先生の原曲よりももっと悲しい。

このカバーには手塚も参加していて、彼のソロパートはテニスに人生の時間の全てを捧げる覚悟を決めた手塚への当て書きに思えてならない。

久々のデートも テニスコートだけれど
熱い想い キミに届くかな
この1球に込めた
そんな笑顔も 泣き顔もみんな
ボクは見守ってきたから

私は乙女ゲームの手塚やラブソングを歌う手塚を見てトキメキを感じたり好意を抱いたのではない。テニスに真剣に向き合い強い信念を持ってコートに立つ手塚を見て、それから声優さんやミュキャスさんが手塚のテニスに対する想いを代弁して歌ってくれて、くにみつくんの熱い想いが届けられたと思ったから、好きになったのである*4

 

何故テニプリという作品はこんなにも「王子様が私の傍にいてくれる」という感情を抱かせてくれるのだろう。私は今までの人生で非実在のキャラクターはおろか現実の人間に対してもこれほどの愛情と信頼を寄せたことはなかったかもしれない。

非実在少年を道標として生きている成人女性の自分本気できっっっしょいなと思いながら、くにみつくんがいてくれるから、生きていられるんだと思う。

最近ちっとも笑ってない

そんなじゃ駄目じゃないかい

キミがそこで笑顔なくす事が

ボクには相当辛い事なんだ

肝心な事 伝わってるのかい?

キミのその胸のHeartに

いつまででも キミの王子様に

信じてれば必ず傍にいるから Smile

(歌:許斐剛 作詞:許斐剛 作曲:許斐剛「Smile」より)

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最近ブログ書くことないなーって感じだったので下書き供養です。

先日テニプリコラボの極楽湯でくにみつくんイメージのお湯に浸かったりくにみつくんイメージのドリンクを飲んで幸せになってるうちに「キャラクターを好きって、何?オタクってなんで色と匂いが付いた湯に浸かるだけで幸せを感じるの?」という問いに改めて直面したので、整理のためにも書き残しておきます。

結論、自分の中に確固たる推しの幻想みたいなものを持っている限り推しの概念ってH2Oでもいいなということなどを確認しました。

テニプリっていいな~(おわり)

*1:残念ながら筆者は若くして自ら命を絶ったが、「八本脚の蝶」はこの日以外の記述も筆者の豊富な読書量と繊細な感性から生み出された名文が数多くあり、書籍化もされている

*2:私は目にハイライトが入った人間型のぬいぐるみが怖いしもちマスの形態も生物として本能的な恐怖を感じるがよりぬいだけは可愛いと思う。個人の感想です。

*3:そもそも私がくにみつくんFOREVER  LOVEアタマお花畑狂人になったきっかけは、来年度の進路も決まらず自分が何をしたいのかもわからずにいた時期に4th不動峰が始まったりリョーマ!が公開されたりでちょうどいいところにくにみつくんという自分を導く光みたいなものが見えたからだ。

*4:時々、「お前は〇〇の柱になれ」という幻聴がガチで聞こえる気がするので自分を律して油断せずに行こうというきもちになれる