激ダサDANCEで凍らせて

ハロプロとテニミュの推し事記録とその他雑記。

テニミュDream Streamはマジで高熱出した時のDream

今年5月にテニミュ全国立海公演が配信されてから0年と5か月と15日、凍結されたコンテンツを推してきた。

疫病によってキャストの卒業式でもありシーズンの集大成でもあるドリライ2020が中止になり、テニミュ3rdシーズンは名目上継続してはいるものの公演が実施される希望は失われていた。動いているのはひたすらキャラクターやキャストの誕生日祝いとテニモ更新情報を呟きつづける公式ツイッターだけという植物状態のままテニミュちゃんはなんとか生き続けていたのである。

私は3rdの現場に一度も行けなかった。もしもドリライ2020が日程を改めて開催されることになったら何としてでも行こうと思っていたが、ついにその日は来なかった。ドリライが疫病の影響で中止になってしまったのは本当に残念だが、私個人の気持ちとしてはそのおかげで全立配信を見ることができ、テニミュに出会えたので少し複雑な思いもある。

そうは言っても凍結したテニミュを5ヶ月半好きで居続けたことは相当つらかった。会えなかったキャラクター、キャストの卒業をDream Streamの配信で見届けるってどんな気持ちだろうと想像してみても、なんだか宙ぶらりんな感じがした。テニミュが好きという気持ちは溢れているのに、周りのおたくと違って私には3rdシーズンとの思い出が無かったからだ。

 

だが泣いても喚いても2020年11月15日のDream Stream配信をもってテニミュ3rdシーズンは正式に終わりを迎える。

ファイナルロード配信の前振りトーク等は別として、リアルタイムで3rdのテニミュを観るという経験は私にとって画面越しのドリストが最初で最後となった。

 

気持ちの整理がつかないまま、ついに11月15日の17時がやってきた。

画面が暗くなり、1stシーズンから歌い継がれる名曲《Do Your  Best!》のイントロと共に青学10代目が無観客のTDCステージに登場する。早くも不二役の皆木さんが目に涙を浮かべながら歌っている姿を見て、ああ、きっと私も配信を見て泣いちゃうな、と思った。

 

何かがおかしい、と気づいたのは立海曲の《お前ら…崖っぷちギリギリ》あたりだったと思う。ドリストは実際のステージで踊るシーン、ロケ地で踊るシーン、そしてCG背景と共に踊るシーンとバラエティに富んだ映像を楽しめるのだが、立海の背景のCG合成はかなり面白いことになっているのだ。まず《お前ら…崖っぷちギリギリ》という曲は立海が青学を追い詰めた際に歌われた曲なのに立海メンバーが崖っぷちにいるのがおかしい。これでは俺たち崖っぷちギリギリである。燃えさかる崖、突如キラリと光る真田の眼、アクリルスタンドが踊っているのか?と疑うほどの実在感の無さ、笑う場面ではないはずなのに全てが面白かった。

次の四天宝寺ナンバー《勝ったモン勝ちや》で違和感は確信に変わる。踊る四天宝寺メンバーの背後で通天閣が弾み、お好み焼きが打ち上げられ、タコが飛び散る。完全にウケを狙いに来ていた。

激ダサトンチキ映像が狂おしい程好きな私は大阪城がバインバイン弾むたびに大喜びしながら見ていたが、3rdシーズンをリアルタイムで長く追いかけ続けていたファンの皆さんはシーズンのラストがこんな感じで本当に大丈夫なのだろうか。先月配信されたドリライ2018とのギャップに驚きを隠せない。

 

更に衝撃的だったのが四天宝寺ラブルスが歌う《ピンキッシュ・ボーイズ》である。原色のサイケデリックな背景とともに踊るラブルス、そしてラブルスの後ろで試合を始める銀さんとみんな大好き冷上剛先輩。ラブルスが歌う間中、飛ぶわ飛ぶわピンクのハート。この既視感と00年代初頭感は何だろうと頭を抱えていたのだが、映像が終わってからかつて少女たちから絶大な支持を得たシャンプー、ティセラのCMの世界観に限りなく近いと気づいた。というか金色小春と言えば桃色片想い桃色片想いと言えば松浦亜弥が出演したティセラのCMである。映像制作の方もきっとその辺を意識していると思うのだが、どうでしょう。ともかく、この映像を作れてしまう天才が2020年に存在しているのが怖い。怖すぎる。

 

この後も子供の頃風邪ひいて高熱出した時に見た楽しい夢みたいな映像が延々と続く。ドリライが中止になり、キャストさんもファンもみんな悲しかったはずなのに、キャラクターを背負ったキャストさんたちは皆楽しそうで、かっこよくて、死ぬほど面白かった。泣いてしまう覚悟でドリストを見始めたのに、気づけばパソコンの前でひとり涙が出るほど笑っていた。

そんな中、唯一跡部の《肌を刺す嵐》だけは完成度の高いMVのような体裁を保っていた。いや、跡部様のお衣装も雨の降る屋上でテニスラケットを持つシチュエーションも少しずつおかしいのだが、《ピンキッシュ・ボーイズ》を観た後の跡部様は驚くほどに高貴でまともだった。

 

《肌を刺す嵐》の次に歌われた青学10代目の卒業バラード、《THANK YOU & GOOD-BYE》では流石に笑いを取りには来なかったが、一つ意外な点があった。歴代の卒業バラードは、青学テニス部の視点からの歌詞にキャストの心情を重ねて歌う二重写しの形が基本だった。しかし、《THANK YOU & GOOD-BYE》では「結果より稽古が大事 稽古次第で本番は決まる」というフレーズが登場する。今までならば「練習」などの言葉を使い、テニスの練習とも舞台の練習とも取れる作詞をするのがテニミュの伝統だったように思う。今回の卒業バラードで役者としての彼らを直接的に表す「稽古」という歌詞が書かれたのは、テニミュのメタ表現の歴史を変える出来事ではないだろうか。

歌詞には少し驚かされたが、青学10代目の綺麗なハーモニーにはやはり感動した。テニプリのストーリーもテニミュの歴史も知らない状態でテニミュを布教され全立配信を見た時には、リョーマと幸村の試合の決着が着いてから幕下りまでなげぇよ、急に卒業式すな、と思っていた。でもテニミュを好きになった今になって聴く卒業バラードは当時と全く聴こえ方が違う。キャストさんの想いとこれまでの歴史を感じながら、10代目のみんなが舞台に立ってくれて良かったと心から思った。

 

トンチキすぎる映像の数々と青学10代目の涙の別れに理解が追いつかないまま本編はフィナーレに差し掛かった。本編は学校ごとのメドレーで締め括られる。氷帝全員で踊るメドレー曲《STILL HOT IN MY HEART》は遠近感やフォーメーションなどに違和感もなく9人が揃っているが、卒業証書授与のシーンでは実は全員揃わなかったメンバーが合成映像で集められていたことが発覚した。散々合成センスのヤバさに爆笑させてもらったが、ドリストはちゃんと凄腕のスタッフさんが心を込めて作ってくれた映像なのだ。

滝さんと岳人は卒業シーンを見る限り別日の撮影だったようだが、2人が並んでスティホを踊るところはそれぞれの内面がよく表れていて好きなシーンなのでアーカイブで何回も再生した。ゆっくり両手を上にあげるだけのシンプルな振り付けの箇所だけど、滝さんは指を綺麗に揃えて、これまでの氷帝に想いを馳せるような表情で斜め上を見つめながら手を上げる。そして岳人は両手を元気良くパーに開き、笑顔で真正面のカメラを見つめながら手を上げる。同じ振り付けを与えられていてもこういう細かい踊り方にキャラクターの個性が表れるのが2.5次元ミュージカルの面白いところで、たとえ別撮りであっても指先にまで気を遣ってキャラクターらしさを表現しているキャストさん一人一人の想いが伝わってくる。

やっぱりドリスト、良い企画だよ。

 

そうしてメドレーも終わり、よくわからないうちにドリスト本編は終わった。終わったのだ。あれほど恋焦がれた強くて圧倒的で美しいサー立も、よくわからない崖に合成され終わりを迎えたのだ。

だが、それでいい。それでこそ私が好きになったトンチキコンテンツ、ミュージカル『テニスの王子様』だ。もしもしんみりとした終わり方をしておたくを本気で泣かせにかかってきていたら、私は永遠に成仏できなかった。

トンチキ合成映像で思いっきり笑わせてくれたから、3rdに出会えて良かったしきっと次の4thも涙が出るほど楽しいんだって思える。

 

3rdシーズンを駆け抜けたキャストの皆さん、ご卒業おめでとうございます。テニミュに出会わせてくれて、ありがとう。

皆さんが繋いでくれたテニミュをこれからたくさん応援したいと思います。

文乃ちゃんは夢と希望のヒロインで私は美味しい柚子

アンジュルム川村文乃ちゃんのバースデーイベントアンコール公演に行ってきました。

9月に書いたバースデーイベントの記事で丸の内を感じる!とかのたまっておいて全然丸の内じゃない場所から配信を見ていたので、コットンクラブに足を運び直接文乃ちゃんの姿を見ることができて感無量でした。

gekidasadance.hatenablog.com

 

文乃ちゃんのお誕生日は7月7日、公演日は11月12日。本来のお誕生日から4ヶ月以上が過ぎ、川村文乃ソロライブみたいなイベント名にすれば良いものを頑なにバースデーと言い張るアップフロントちゃん。開演前にはいつも通りBDEお馴染みのオシャレな洋楽っぽいバースデーソングが流れます。

私が文乃ちゃんに会うのは約1年ぶりで、去年の《私を創るのは私》のリリイベ以来でした。オシャレな曲調のハッピバースデートゥーユー♫を聴くと過去のバースデー現場の記憶が蘇り、緊張が増してきます。全然バースデーじゃないのに。

 

コロナの影響で司会などもなく演出を減らしたイベントだったので文乃ちゃんはサラッと登場。

前回のイベントと同じ衣装だったのですが、白黒ギンガムチェックのミニワンピースに白と薄水色のオーガンジーをふんわり重ねたこの衣装は文乃ちゃんのスタイルの良さにも内面の女の子らしさにも合致していて、すごく可愛いなと思います。

 

一曲目に歌ってくれたのは《恋の花》。文乃ちゃんの可愛い歌声と繊細な感情表現を観客に伝えるためにはこれ以上ない程完璧な選曲です。《恋の花》と言えば2018年春のライブハウスツアー「十人十色」で文乃ちゃんがソロで歌った曲で、当時を思い出して懐かしくなりました。この曲は「あなたに出会い」という歌詞のところで客席に手を差し出す振付があるので、おたくにとってはトキメキ度の高い曲です。2年前も今回も、ああ、今の確実に私へのレスだったな、という確信(幻覚)を得ました。

 

続けて歌ったのが《秋麗》と《キラキラ冬のシャイニーG》。毎年夏にバースデーイベントをやっていると寒い季節の曲ができないのでセトリに組み込んだそうです。イベントの時期が例年と違うということすらプラスに捉えているのがすごく文乃ちゃんらしいなと思いました。

アップフロントさん、文乃ちゃんのお誕生日は夏に終わっただろなんて言ってすみませんでした。たとえ秋でも冬でも365日が川村文乃さんのお誕生日ってことで合ってました。

 

中盤の曲は、《通学ベクトル》や《リズムが呼んでいるぞ!》みたいな客席も手拍子で参加できるような曲が中心。こういう盛り上がる曲で手拍子をしたりサイリウムを振っていると、急にアイドルヲタクとしての自我が目覚めてきました。ノリノリで手を叩いていると文乃ちゃんが「皆さん拍手がすっごく上手ですね〜♡すご〜い♡」とおもっきりヨイショしてくれます。手拍子をしただけでこんなに自己肯定感が高まってしまっていいのでしょうか。

セトリの組み方を見ただけでも、文乃ちゃんはどんな時でもオタクを喜ばせようと考えてくれる優しい女の子なんだなと思いました。疫病で夏にバースデーイベントができなくなっても、声を出したコールができなくなっても、ポジティブに気持ちを切り替えてオタクを楽しませようとする文乃ちゃんを見ると文乃ちゃんを推していて本当に良かったと思えます。

 

トークコーナーでは地元高知のゆずをPRしながら、「皆さんも柚子をいっぱい食べて柚子になってください!」とおたくに呼びかける文乃ちゃん。文乃ちゃんがそうおっしゃるなら私は今日から柚子です。

文乃ちゃんがゆず活アンバサダーを務める「まるごと高知」からは文乃ちゃんのイラストがパッケージに起用された商品が発売されるらしいです。文乃ちゃんはライブの日替わり写真などにも毎回凝ったイラストを描いているので、文乃ちゃんの地元愛とクリエイティブなセンスが外部仕事につながるのはすごく嬉しいです。良かったね。

 

ラストの曲はjuice=juiceの《銀色のテレパシー》。この曲は前回の配信でも聞いていて、今回のセトリにも残しておいてほしいなと思っていた曲でした。歌い出しの「流れ星 さみしさに暮れる私を呼んだ」っていう1フレーズが文乃ちゃんの甘くて切ない声にぴったりで、目の前で聴けて感動しました。

星、花、雪などの宝塚の世界のような枕草子の世界のような、繊細で綺麗なモチーフを歌う文乃ちゃんが本当に大好きです。何を歌っても少女小説の主人公になってしまう文乃ちゃんは生まれながらのヒロインであり、アイドルなのだということを何百回でも主張したい。

 

前回のイベントから引き続きセトリに入っている《凜(RIN)》も《銀色のテレパシー》も、今は別れているけどまた会おうねっていう再会への希望の曲なんですよね。

文乃ちゃんは前回も今回も「今はアンジュルムが集まって歌えないけど、早くみんなでライブがしたい」ってお話ししてくれていて、中々アンジュルムのメンバー全員とアンジュルムのファンが集まれない状況下でこの二曲は文乃ちゃんにとって特別な思いのある曲なんだなと思いました。

 

約1時間があっという間でした。楽しい時間をありがとう。

文乃ちゃんとアンジュルムにまた会える日まで、美味しい柚子になれるようにがんばります。

ルドンの《グラン・ブーケ》を観てきた話

三菱一号館美術館の「1894 Visions ルドン・ロートレック展」を観てきた。

 

mimt.jp

 

展覧会でまとまったルドンの作品を観るのは今回が初めてだ。

実は2018年春にも三菱一号館美術館で「ルドン―秘密の花園」という展覧会が開催されていたのだが、当時の私はルドンの作品を「うわキッショ…」と思っていたので観に行っていない。

ルドンの作品は正直に言ってぱっと見が不気味だ。ルドンを好きになった今でもニヤニヤ笑う人面蜘蛛の絵などを見るとヒエッとなる。

 

オディロン・ルドンはフランスを代表する象徴主義の画家で、画業の前半にはモノクロの作品ばかりを制作し、1894年を境に突如豊かな色彩を持った花々や人物を描きはじめた。この展覧会はルドンの画業の転換点となった年であり旧三菱一号館が竣工した年でもある「1894年」を軸に据えた構成となっている。

 

三菱一号館美術館の建物は旧三菱一号館を平成になってから復元して建てたものなので実はまだ新しい美術館なのだが、デカくて白い空間を仮設壁で仕切って展示スペースにしている国公立の大規模美術館より何倍も趣がある。

まず外観がこれ。せっかく19世紀末から20世紀初頭の「良き時代」の作品を観に行くなら白や灰色の直方体でできた美術館より茶色いレンガ造りの美術館のほうが断然気分が高まる。

 

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館内もレトロな洋館風で、目立たない小品であってもおしゃれなマントルピースの上に展示されていたりするとなんだか優雅な作品に見えてくる気がするし、1894年の空気を吸いながら絵を見ている気分になれる(?)

 

「1894 Visions ルドン・ロートレック展」はルドンやロートレックの他にも印象派の作品や日本の洋画までその時代にまつわる作品を幅広く展示していたのだが、目玉となるのはルドンの《グラン・ブーケ》である。《グラン・ブーケ》はカラフルなパステルで描かれた大作であり、元々は貴族の邸宅の装飾のために注文されたものだ。

 

《グラン・ブーケ》はこの一作品の為だけに設けられた一室に展示されていた。

暗い展示室に足を踏み入れた時、作品自体が生命を持ってぼんやりと光っているように感じられた。 もちろんパステル画が発光するわけがないのでそれは私の抱いた印象にすぎないのだが、この作品の鮮やかな色彩とそれを引き出す展示空間が描かれた花々を生命体の様に見せていたのだ。

展示室内の照明は落とされ、作品のみが至近距離からライトで照されている。この展示では、かつては暗い食堂を飾っていた《グラン・ブーケ》の本来の見え方を再現しようと試みられていた。

 

通常このような大作がパステルで描かれることは滅多にない。しかしルドンはこの作品が暗い食堂に置かれることを想定して、油彩ではなくパステルで描いている。

ルドンのことを「うわキッショ…」と思っていたくせに後からやっぱり気になって(2019年にはクリムトやらモローやら象徴主義関係の展覧会が多く開催されたこともあって、ルドンにも興味が沸いてきたんだったと思う)「ルドン―秘密の花園」の図録だけ持っていたのだが、印刷ではパステルと油彩がどう違うのかはよく分からなかった。

 しかし素晴らしいライティングを受けた実物の作品を見るとルドンの意図がよくわかる。乾くと光沢が出る油彩ではこのような柔らかい光り方はしない。

 

《グラン・ブーケ》に描かれた花々は花というよりも顕微鏡で拡大した微生物のようで見ていると不安になってくるのだが、印刷された《グラン・ブーケ》はその不穏ささえも安っぽいものだった。

 暗い空間の中でぼんやりと光る実際の作品とそこに描かれた花々は不穏ではあるが、幻想的で美しい。植物画に対する褒め言葉として今にも動き出しそうというのは変だけど、額縁の中で咲き、萎れ、こぼれる花々には不思議な生命力を感じた。

 

今回の展示の前半にあるポスターや挿絵などは生で見て感情が揺さぶられるような芸術ではない。あれはカタログで眺めているだけで十分楽しいし、時代の雰囲気と文化の潮流を感じて楽しむものだと思う。

やっぱり実物に出会ってびっくりさせられるのは、《グラン・ブーケ》みたいな色彩豊かな大作を観た時が多い。色彩やスケール感が失われると何にもならない作品はたくさんある。

今自宅でパソコンのモニター越しに《グラン・ブーケ》を見ても、あれ、やっぱりキショくないか?と思ってしまう。

だから美術館に通うのをやめられない。

 

このブログ、第一印象が悪かったものの話ばかりしているが、好きなものを観に行った時には凡庸な感想しか出てこない。

美術を見ていてもオタクをしていても、好きなものが増えた瞬間が一番嬉しい。だから書き留めておきたい話は実物を見て印象が変わった話ばかりになる。

 

ルドンの色彩の豊かさに気付いたからこそ、印刷物に閉じ込められたルドンの色彩がかわいそうになってくる。頭の中に残っている本物の印象が印刷に上書きされてしまうのが嫌で、ミュージアムショップに並ぶグッズを視界に入れないようにしながら帰った。

 

悲しいけど、グッズは思い出再生装置であると同時に思い出上書き装置でもある。

双眼鏡は推しのパンツを拡大する為の道具ではない

歴代のテニミュを通して私の一番の「推し」と言えるのは、1stシーズンの中河内雅貴さん演じる仁王雅治である。

好きなキャストさん、好きなキャラクターはたくさんいるけれど、〇〇さんが演じる△△がドンピシャで大好き、みたいな殿堂入り級の大好きは中河内さんの仁王以外にいない(他のキャラだと、ビジュアルはこの人が好きで振る舞いのハマり具合はこの人で歌に感動するのはこの人だけどみんな違ってみんな良いになりがち)。

 

詐欺師のような深い洞察力を感じさせるミステリアスな眼差し、仁王としての胡散臭さと王者としてのプライドを兼ね備えた立ち振る舞い、掴みどころのない喋り方、手塚の冷静な歌声も白石の艶めかしい歌声も自在に操ることのできる器用さは私の理想とする仁王雅治そのものだった。

そして何より、私は中河内さんのダンスが好きだった。中河内さんは15歳で家族の元を離れて長野のスクールに通っていたほど本気でダンスに向き合ってきた人だ。ジャズダンスやバレエの基礎をしっかり身につけていて、ダンスの技術はとても高い。

しかし私は中河内さんのダンスを見て、技術よりもむしろ仁王雅治としての表現力に惹かれた。中河内さん演じる仁王は二次元の姿そのままに常に猫背で重心が低い。真っ直ぐな姿勢が基本のジャズやバレエを踊ってきた中河内さんが仁王の役に合わせて怠そうな姿勢のまま踊るのは大変だったんじゃないだろうか。しかも中河内さんのダンスは仁王らしい怠さがあるにもかかわらず、キレとリズム感の小気味良さが半端ではない。ペテン師だぁ?やイリュージョンの曲中だけじゃなくて、ラリービートにもしっかり音ハメをしながら試合を続ける。中河内さんは気怠げな詐欺師とキレのあるダンスという両立不可能なものを両立させているのだ。重心を落としたままステップを踏み一気に地面を蹴って高く飛ぶ様子などはまるで仁王の気まぐれな内面を表しているようだった。

2.5次元ミュージカルに求められるダンス、つまりただ上手いだけのダンスではなくキャラクターの内面を表す手段としてのダンスとはこういうものなのだと、私は中河内さんの仁王を見て理解することができた。

 

半年ほど前にテニミュと出会い、10年以上前に収録された1st立海のDVDを狂ったように再生しまくる私が大好きな中河内雅治を生で見ることは残念ながら叶わないのだけど、仁王が見れないのはもうしゃーないので中河内さんのダンスを生で観たかった。

 

ということで、中河内さんが出演するミュージカル『ビリー・エリオット』を観てきた。

中河内さんが演じるのはバレエダンサーを目指す主人公・ビリーの兄であるトニー。トニーは1980年代のイギリスで炭鉱の労働環境改善を求め、ストライキに参加しながらもビリーの夢を応援する役どころだ。

 

ビリー・エリオット』は夢を追いかける子供が主人公ということもあって、わかりやすく楽しい舞台だった。序盤はキャッチーで軽快な音楽とダンスで勢いをつけて、主人公が夢を叶えて旅立つラストシーンになると感動的な音楽が流れてきて客席みんな泣く、みたいなわかりやすさ。

正直、私が好きなタイプの物語かといえばそうではない。私は夢を追いかける系のストーリーに嫉妬、絶望、挫折、犠牲みたいな負の感情を求めてしまう闇のオタクなので『ビリー・エリオット』を見ていても全く涙腺が緩まなかった。まあ、闇のオタクの嗜好は置いておいて、楽しい舞台なのは確かだった。

ビリー・エリオット』の一番の楽しさは音楽の臨場感にあると思う。キャストの歌声だけでなく生演奏のオーケストラも迫力に満ちている。音圧に殴られる高揚感を久しぶりに体験し、現場最高オタクになった。現場、最高。

台本に書かれた物語を脳が理解するという過程を超えて、視覚や聴覚からダイレクトに感情がドバババババっと入ってくる感覚はパソコン越しの配信と比べ物にならない。

特に一幕の最後のシーンは音圧がすごくて、ビリーが労働組合のイザコザに巻き込まれてオーディション行けなくなってウワー!ってなって終わるんですけどそのシーンがはちゃめちゃにうるさくてアドレナリンがアホほど出た。

 

ちなみに一幕には労働組合と警察の小競り合いと女の子達のバレエレッスンが舞台上で同時進行している混沌としたシーンも存在するのだがこれが聴覚的にも視覚的にもうるさくて、これを同時進行させちゃう発想が天才だなと思った。

一応若者の私にとって労働運動なんて写真でしか見たことのない過去の出来事だけど、サッチャー政権下のイギリスで起こったデモやストライキって私たちが想像し得ないほど生活の中に入り込んでいて、それこそバレエを習う女の子たちが毎日うるさいと感じるほどのことだったんだと思う。そういう臨場感が音楽とダンスで表現されていて、『ビリー・エリオット』の中でも特に好きなシーンだった。

 

バレエ教室の女の子たちは「バレエガールズ」というアンサンブルの子役が演じている。演技はしっかりしているものの、バレエの方ははっきり言って下手だ。バレエの基礎が身についた踊り方をしている子も混ざってはいたけど大半の子はバレエのルールから外れているし、そもそもビリーや女の子たちにバレエを教えるウィルキンソン先生が口にするバレエ用語と実際に子供たちが練習する動きは合致していない。「バレエガールズ」はわざとバレエ未経験者をオーディションで取っているように思われる。演出の意図として正確なバレエを舞台上で見せようとしているわけでは無さそうだった。

はじめはこれを子供っぽい賑やかさを表すための演出としか思っていなかったのだが、ビリーがバレエ学校に合格して地元を離れるシーンのウィルキンソン先生の言葉を聞いて腑に落ちるものがあった。

ウィルキンソン先生は旅立ちを前にしたビリーに向かって、「ここで習ったことは全部忘れなさい、バレエ学校に行けばここでのレッスンがいかにいい加減だったかわかる」みたいなことを言うのだ。

イギリスの炭坑夫の労働運動を描くこの物語は経済資本の格差に焦点が当てられているが、ウィルキンソン先生の言葉はイギリス社会の文化資本の格差も物語っていて、正統な文化と伝統から外れたところに置かれた労働者階級と王立のバレエ学校の隔絶を示している。

楽しいバレエしか知らずに生きてきたビリーがその隔絶を知らずに夢へと飛び込んでいく姿はとても眩しくてある意味では残酷だ(闇のオタクが注目するのはやっぱりそういう部分になってしまう)。

そうした炭鉱町のデタラメで楽しいバレエ教室とロイヤルバレエスクールの「ザマス」の世界の対比もこの舞台の見どころである。日本語版『ビリー・エリオット』は英語版の原作では区別されていたであろう労働者階級の発音と中産階級の発音をわかりやすく表すために前者は西の方の方言をごちゃまぜにした仁王雅治みたいな喋り方に、後者はザマス喋りに翻訳されている。

なので『ビリー・エリオット』では乱暴な仁王みたいな喋り方をする中河内さんを堪能できます。

 

……そうだった、長々と舞台の感想を書いてしまったが本題は中河内さんの話だった。

結論から言うと、中河内さんはほとんど踊らなかった。中河内さんと言えばダンス、ダンスと言えば中河内さんなのに中河内さんがミュージカルに出演して踊らないことあるんだ!?って思ったけど踊らなかった。

 

中河内トニーが最初に目立った形で登場したのは一家のリビングルームでのシーン。

ズボンを履かずパンツ姿で家の中をうろうろする推しは早くズボンを履けと怒られていた。人生で初めて生で見る推しに興奮を隠せないが決して服装のせいではない。ズボンを履かずパンツ姿で家の中をうろうろする推し、それを双眼鏡でストーカーする私。完全に変質者vs変質者の戦いだった。

まだまだ序盤のこのあたりではいつ中河内さんのソロダンスが来るのかな♫とワクワクしていた。

物語は進み、推しは赤いビキニを着たセクシーお姉さんの体がプリントされた怪しいエプロン姿でまた家の中をうろうろしていた。猥褻なエプロン姿でうろつく推し、それを双眼鏡でストーカーする私。私はこのあたりで、さすがに中河内さん踊らなさすぎじゃないか…?とソワソワしていた。もちろん中河内さんのお芝居も好きなので、労働環境の改善を求めて必死に声を張り上げ、時には父親や弟とも衝突するちょっとガラ悪めなトニーにしっかりラブとトキメキを感じていた。父親と言い争うシーンではビブラートとビブラートがぶつかり合い、詐欺師の中河内さんしか知らなかった私は真っ直ぐな歌声の中河内さんも好きだ、中河内さんなんの役でも好き、声が良い、声が感情の塊…ありがとう…という感情になった。

そうこうしているうちに物語はラストっぽい雰囲気に突入し、もうこれは中河内さん踊らないかもしれない、そういう役だったんだ、生の中河内さんを見れただけで十分幸せだから諦めよう…という感情になった。

と思っていたらカーテンコールでついに中河内さんが踊った。作業着の上からバレエのチュチュを着て。

踊ったと言ってもみんなで大団円るんるん♫くらいのダンスで、私が期待していたような役としての感情を身体の動きに込めた激しいダンスではなかった。しかしチュチュを着て踊る35歳男性の推しは全身から溢れんばかりのハッピーオーラを放っており、非常に非常に愛らしかった。

当然双眼鏡でストーカーした。私はせっかく生の舞台を観るなら全体の雰囲気を楽しみたい派なので、基本的に推しの登場シーン以外は双眼鏡を使わない。思えば今日私が双眼鏡で覗いたものは推しの下着姿と推しの猥褻なエプロンと推しの女装だった。

感動の推しとの初対面が「双眼鏡越しに覗くパンツ」だったオタクが私以外に存在するのだろうか。

 

私は踊っている中河内さんを観るまで諦めるつもりはない。これからも中河内さんの出演情報をチェックし続けよう。中河内さんの本気のダンスを見た時が本当の中河内さんとの初対面だと思うことにするので。

 

と思いながらTwitterで人の感想を見てたら、労働運動のドタバタとバレエレッスンが同時進行してるシーンの労働者達の中に中河内さん演じるトニーが混ざって踊っていたらしかった。

私の双眼鏡は推しのパンツを拡大するためにあったんじゃない、アンサンブルの中に混ざる推しを見つけるためにあったんだ。

 

確かに… 確かに中河内さんのイリュージョンを生で見るのは私の悲願だったけど…

それは見つけられんぜよ…

アニメ『昭和元禄落語心中』の魅力

バトルもの、スポーツもののアニメのあの、ウォアーー!!って叫んでる主人公の顔がアップになって貴様ーー!!って叫んでる敵の顔がアップになってずっと繰り返し、みたいな冗長さが本当に見てられない。いや、人が戦ってるアニメに限らず漫画原作のアニメは大体途中で飽きる。

20分×12ないしは24話という枠組みに縛られている以上話のリズムが間延びしたり駆け足になったりするのはしょうがないのだが、自分のペースで噛み砕きながらページを捲れる漫画の方が好きだった。

(私はアニメに限らずYouTuberが作った解説動画もテレビのバラエティも映像授業も、推しが喋る配信でさえも集中して動画を見ることができない。映像美を追求した映画とか、音楽やダンスの躍動に溢れた映像とか、そういう情報量が多いもの以外は飽きてしまう)

 

そんな私が最近、心を射抜かれたアニメがある。雲田はるこ原作の漫画をアニメ化した『昭和元禄落語心中』である。

落語界の盛衰と師弟関係や兄弟弟子の絆を描いた本作品一番の見せ場は他ならぬ落語家の喋りであり、人の話は2倍速にしないと聞いていられない私が『昭和元禄落語心中』計2期全25話に耐えられるわけがなかった。

と思っていた。

夢中になって一気見しました。もちろん等倍速で。

 

そもそも『昭和元禄落語心中』(今気付いたが『昭和元禄落語心中』って略称が無いんか?私はこの記事を書き終えるまでずっと『昭和元禄落語心中』の8文字を打ち続けないといけないんでしょうか)を見始めたきっかけは、友人がTwitterで『昭和元禄落語心中』はキャストの表現力も作画の表現力もすごいから見ろと布教しているのを目にしたからだった。

布教ツイートを読んで更に私が気になったのは、作中では同じ落語の演目が違った意味合いで繰り返し演じられていて、いちいち感情移入してしまうという一文だった。私は演者と役の二重写しがマジのマジで好きだ。古典落語の物語が落語家本人の人生とリンクしながら何度も演じられるなんて最高に決まっている(実際、最高だった)。正直落語に関しては全くの無知だったので、途中で飽きるんじゃないかなという疑いも多少抱いてはいたが断然興味が掻き立てられた。

 

凄い。1期第2話にして早くもこのアニメの表現力に刺殺された。

初高座(落語家としてのデビューみたいなもの)を迎えた主人公・菊比古が客席を白けさせてしまうシーンを見た時、私は人生で初めて集中力が切れたとかテンポが遅くてつまらないという以外の理由でアニメの一場面が早く終わって欲しいと感じたのだ。

冷えていく客席の温度、菊比古の頬を流れる汗、居た堪れない空気が画面越しに伝わってくる。この場面から逃げたかった。これが漫画だったら急ぎ足でページを捲ってしまうんじゃないかと思う。

 

このアニメにおいて、臨場感溢れる「上手い」落語のシーンでは、一人で何役もこなしながら話を展開する落語家が役を切り替える度にその落語家を映すカットも切り替わり(そのカットの繋ぎ方が絶妙なので、あれ、登場人物が複数人いて会話してる?という錯覚を視覚的に味わえる)、時には落語家の生んだ想像の世界をアニメーションとして差し込んでいる。

一方で菊比古の初高座のような「白けた」落語のシーンでは、客席から高座を固定カメラで撮ったような長いカットが続き、単調でつまらないシーンが意図的に作られている。

 

だから2話のあのシーンはとにかくつまらないのだ。作中で菊比古の落語を聞いている観客もつまらないし、画面越しに『昭和元禄落語心中』を見ている私たち視聴者もつまらない。

それにもかかわらず夢中で見てしまうのは、石田彰さんのあまりに痛々しくぎこちない声を吹き込まれた菊比古が可哀想で、死ぬほど感情移入してしまうからだ。

石田彰さんは凄い。このアニメを全編通して見る時に、凝り固まった噺しかできなかった菊比古がだんだんと柔らかく自由な声を手に入れていく過程は菊比古のリアルな成長を追っているようにしか感じられない。でも、当たり前だけど、ぎこちない菊比古の声もしなやかな菊比古の声も石田さんが意図的に演じ分けているのであって、声優の石田さんの落語が実際に上達しているわけではないのである。

声優さんのこの妙技を体感できただけでも『昭和元禄落語心中』を見た価値があった。

 

このアニメが視聴者を惹き込む仕掛けは、カットの繋げ方や声優さんの技術だけにあるのではない。

時代の移り変わりの境目や現実とファンタジーの境目がシームレスで、いつの間にか時が進んでいつの間にか死神や亡霊が登場している不思議さにもこのアニメの魅力がある。

 

前者の時の経過の表現に関して、例えば大正に造られた寄席の建て替えの話が持ち上がり、席亭と与太郎が寄席の歴史について語り合うシーン。席亭は寄席を取り壊さなくてはいけない理由として、「関西で大地震があったろう?あれで建物の耐震基準とかいうやつがべらぼうに厳しくなるんだってよぉ」と話すのだ。ここで視聴者は物語の時間軸が阪神淡路大震災の直後まで進んでいることを察する。

昭和初期から平成にかけての歴史を描くこの作品では、会話の中でさりげなく時代ごとの大きな事件に触れることで時の流れを示唆している。もし与太郎の見ているテレビから阪神淡路大震災の速報が流れているシーンなどをぶち込みでもしたら作品の世界観は一瞬にして崩れていただろう。

会話だけでなく、時の流れは街の景観、電化製品の形状、女性の服装など様々なディテールで表現されている。そういった些細な映り込みは野暮な時代背景の説明よりもずっと雄弁に時代を語り、ノスタルジーを演出しているのである。

 

後者に挙げた現実とファンタジーの境界の曖昧さも見事だ。昭和から平成にかけてのおよそ80年、数世代に渡る物語を描く本作の構成は、典型的なNHKの朝ドラの構成に近い。この作品は卑近な日常や個人の視点から見た世相の変化、つまり私的で現実的な歴史に焦点を当てている。そこに死神や亡霊といった怪異が突然入り込むと、普通ならばすさまじい違和感が生じる。しかし『昭和元禄落語心中』では、ごく当たり前のように死神や幽霊が菊比古(=八代目八雲)の前に登場し、(ネタバレを避けて言うと)2期第9話のラストではこの世のものではない存在が現実の人間の精神や身体に深く干渉することとなる。

物語の後半になって朝ドラ的世界観に怪異が入り込んだ時、私たちは全く違和感を抱かない。その理由の一つに、落語家は自らの声によって見えざるものを生み出し、聞き手にイメージを見せる力を持っているということが作中であらかじめ強調されているということが挙げられるだろう。このアニメの視聴者も落語家たちが生み出す不思議な世界に浸かっているうちに、まあ、死神が見えてしまってもおかしくないかな、と思わされてしまうのだ。

また、作中で描かれるハレの空間の存在もその違和感を揉み消している。この作品では、幻想的な橙色の光に包まれた夜の花街や縁日のシーンが頻繁に登場する。こうした非日常の世界が現実とファンタジー世界の境界を曖昧にし、死神や亡霊の存在を物語にスッと馴染ませているのである。

ありふれた日常と地に足つかない非日常が融和した『昭和元禄落語心中』の世界観は、まるで古典落語の不思議な世界のように人を惹きつける。

 

話は変わるが、菊比古の静かで悲しげな佇まいと、ハレの空間の喧騒の対比はハッとするほど美しい。菊比古は絶えず客席の笑いや兄弟弟子の熱気や非日常空間の喧騒に包まれながらも、どこまでも孤高で美しい存在なのだ。

(作品の知名度的にわかりやすいので例えに出させてもらうと、『千と千尋の神隠し』の幻想的で賑やかな世界の中に凛として立つハクが好きな人にはきっと菊比古も刺さると思う)

ここまで3000字近く『昭和元禄落語心中』の魅力を語ってきたが、本当は菊比古がどうしようもなく好きになってしまったということ以外に語るべきことは何もなかった。でもこの作品がキャラ萌えやBL萌えに終始する作品ではないということは言っておきたい。冒頭の友人の布教通り、『昭和元禄落語心中』は作画の繊細さも声優さんの演技もなにもかもが洗練されていて、アニメとしての完成度がとても高い。小説にも漫画にも実写にもできない、アニメにしかできない仕事をしている。

美しい色調と音楽に彩られた東京の街を生きる菊比古に出会えて、良かった。

 

昭和元禄落語心中』を見てほしい、というお話でした。

世代交代の波に翻弄される懐古厨

この世のあらゆるご長寿ジャンルには、美化された思い出を懐かしみ新しいものを拒絶するモンスター、いわゆる懐古厨が必ず生息している。

オタクが推しに向ける気持ちは恋愛感情とさほど変わらない。推しへの熱量は出会った時を頂点として後は静かに引いていき、徐々に穏やかな愛に変わっていくものだ。

そうして少し離れた距離感で推しを見守るようになってからも沼にハマった直後の興奮はいつまでも心のどこかに残っていて、あの時は最高だったという懐古と共に延々とエモを燻らせ続けてしまう。

 

2018〜20年にかけてハロプロアイドルであるアンジュルムのメンバーが卒業と加入を繰り返した時、私はまさに懐古厨の症状に陥った。アンジュルムに初めて出会った時の感動を引きずり、変化し続けるグループを受け入れることができなくなった。

私の記憶の中にあるかっこよくて尖ったアンジュルムと出会った時の衝撃が、当時推していた福田花音ちゃんや室田瑞希ちゃんの卓越したパフォーマンスが、いつのまにか可愛くてポップなアンジュルムの印象に塗り替えられているような気がしたのだ。

 

メンバーの卒業と加入によって形を変えながら続いていくコンテンツを追いかけていて、卒業するメンバーが新メンバーより輝いて見えるのは当たり前だ。メンバーはいつか必ず短い青春の全てを掛けて積み重ねてきたものを卒業という形で清算して去っていき、代わりに歌やダンスのスキルも芸能人としての自覚もこれから育っていく真っさらな新人が入って来るのだから。

はじめに書いたオタ活の熱は最初がピーク理論と同時に、こうした卒業システムも懐古厨の病を悪化させている。

頭ではわかっていても懐古厨は治らない。

Twitterなんかで新メンバーを素直に歓迎するおたくを目にすると、未熟な我が子を見守る母性のようなものを感じて、なんて寛容な大人なんだろうと思う。

私にはそうした母性のかけらもない。むしろ私は卵から孵って最初に見たものを親と思い込む雛であり、沼に落ちた時のメンバーが至高だと思い込み続けるおたくだった。

 

前の記事で「次世代への継承は希望」みたいなことを言っておいてとんでもない手の平返しをしてしまったが、実のところ、そういえば私は世代交代を受け入れられない系懐古厨だったな、と心の片隅でモヤモヤしながらあれを書いていた。

gekidasadance.hatenablog.com

 

もちろんコンテンツが長く続いてくれるのは嬉しい。歴史を継承してくれる新人は紛れもない希望だ。でも推しには永遠の命を手に入れて欲しいに決まってる。推しは代替不可能だから推しなのだ。

 

話が脱線してしまったのでアンジュルムの話に戻す。

私は変わりゆくアンジュルムに散々文句を垂れていた。しかし今こうして元気におたくをしている。

戦闘力が弱まったアンジュルムが好きじゃないと言いつつもなんだかんだアンジュルムは私の脳に染み付いていて、結局嫌いになることはなかったのだ。今やかわいい新メンバーにもキャッチーな新曲にもばっちりハマっている。

 

たとえ熱が冷めても、おたくの心の支えは推し以外にない。私にとってのハロプロはいつしか静かな生活の一部になっていた。

もう向き合うべき生活を犠牲にして遠征に行きまくったり同じセットリストのライブを何回も観にいったりはしないけど、毎日イヤホンでハロプロの曲を聴いて毎日メンバーのインスタにいいねしている。

ハロプロには老舗ジャンルを好きでいる醍醐味というか、好きなものをゆるく長く推していけるという安心感を与えてもらっている気がするし、結局私はアンジュルムのことが死ぬまで好きなのだと思う。

 

テニミュを好きになったばかりでコンテンツへの熱を持て余し、新テニミュから現場デビューできる予定の自分へ自戒を込めてこれを書いている。

ちょうどTSCのチケット先行受付があり、私は関西在住にもかかわらず大阪公演に加えて東京凱旋公演のチケットも数枚申し込んだ。冷静に考えて新テニミュのチケットは結構いいお値段だし行きたい現場は他にもある。しかし申し込みフォームにウキウキで席種と枚数を打ち込む私にもはや理性は残っていなかった。しっかりめに高熱が出ている。

 

高熱を出しながらも、懐古厨という持病を抱えた私はこれからテニミュをリアルタイムで追いかけて何のモヤりもなく大好きになれるのかな、みたいな不安をぼんやりと感じている。テニミュとの初めての出会いである3rd立海や初めてDVDを買った2nd氷帝を生で観れなかった後悔はどうやっても拭い切れない気がするのだ。

 

一方で未知のテニミュに対しての期待も無限に膨らんでいく。

DVDを幾度となく再生した過去の公演を劇場で観ることが絶対に叶わない悲しさより時間を巻き戻せない絶望より、これからテニミュ現場に行けるという事実がとにかく嬉しい。最早テニミュがこの世界に存在しているだけで嬉しい。

過去を神聖視し、後ろ向きな気持ちを抱えてヲタ活をする虚しさと馬鹿馬鹿しさは既に理解したつもりだ。新テニミュや4thシーズンをリアルタイムで追いかける中で好きなキャストさんや好きな新曲をたくさん見つけ、健康なおたくを目指したい。

いや、懐古厨は病気だしおたくも病気だけどどうせなら幸せな病人でいたいよ。

 

そしていつか浮かれた気持ちと熱が冷める日が来ても、テニミュを静かな生活の一部として大切にできる立派なテニモンになりたい。なります。

ドリライ2018とはかきょ

 テニミュファイナルロード企画として、ドリライ2018が配信されました。ずっと見たいと思っていた公演です。毎日コツコツ投票していた公演が上位3作に選ばれると嬉しいですね。

 

ドリライ2018、一言で表すと感情のジェットコースター。手塚ァァァァァァ!!!!ビューん!スライディングがっしゃーーーン!!!!から重厚感溢れる真田メドレーに繋げるのはやめてほしい。あまりの温度差にこっちの感情がスライディングしてます。集中力皆無の私だけど、画面の前で笑ったりうるっときたり忙しくて約3時間半を一瞬に感じてしまった。

 

特に面白かったのがブン太が真田の鉄拳でブラジルまでぶっ飛ばされて地球を突き破り横アリまで戻ってきた演出。これがベストオブトンチキ賞です。やっぱりテニプリは地球が好きだな。私も好きです。

トンチキ特別賞はBlood Shotの三強謎ダンスと六角のおじいのラジコンです。おめでとうございます。おじいのラジコンの場当たりに一番時間がかかったエピソードも絶妙にしょうもなくて高得点ですね。

低予算まるだしのおじいを見て思ったのですが、ドリライは「あえて」文化祭感を出した演出が上手いなと感じました。テニミュってすごく人気のあるコンテンツだし、横アリという大きな箱を使ったライブを成功させるだけの人材力や資金力がある。でもがちがちに固めた隙のない演出はあえて避けているような気がします。例えばキャストの衣装は早着替えの必要が無いのにユニフォームの上からジャケットを羽織る中途半端な格好が多い。バイキングホーンの演出も船がただの板の集まりでできてたりだとか、トリオが波を模した布を一生懸命バタバタさせてたりだとか、横アリの場にそぐわないチープさが比嘉のコミカルさに上手く繋がっている。そういう「外し」が、テニスの王子様の世界観を壊さずにライブを行うための重要なポイントになっているのではないでしょうか。

ドリライテニミュ曲を使ったコンサートじゃなくて、あくまでキャラクターが歌っている体で行われる演劇の一部なんですよ、というメッセージを感じます。

 

面白ポイント満載のドリライ2018ですが、幸村と真田のデュエットや青学9代目の卒業をはじめ、泣けるポイントも満載。数ある感動的なシーンの中でも私が一番やられてしまったのは、乾貞治と柳蓮二(博士と教授、はかきょ)が再現する関東立海S3とフォー・トゥー・フィフティーンです。

ドリライはあくまでライブなので試合の再現は基本的に控えめで、歌とダンスの盛り上がるところだけつまみながら思い出を振り返りましょうというコンセプトなのですが、はかきょのシーンは歌もラリーも台詞も再現率が高い。

 

元々の関東立海公演と大きく違うところは、子役が演じる小学生のはかきょの回想VTRが台詞はほぼそのままにカツオとカチローのお芝居に差し替えられた点です。この演出はすごく良かった。

これはドリライ2018の後の描写なので単なる偶然の一致なのですが、カツオは原作の新テニ番外編で乾の跡を継ぐデータマンとして活躍していて、柳はテニミュ全国立海公演の日替わりで髪型がおかっぱという理由でカチローのフリをしているんですね。

だからカツオとカチローはある意味幼い乾と柳を象徴する存在でもあります。でも二人はあくまで幼少期VTRのはかきょの代わりではなくカツオとカチロー自身として登場しているし、二人を叱る存在としてはかきょのコーチではなく手塚部長が登場します。

何故私がここにグッときたかというと、乾と柳が過去から未来への時間の流れ、そして次世代への継承というテーマと深く結びつくキャラクターであることがこの場面で示されていて、それはテニプリの物語のみならずテニミュキャストの物語においても重要なテーマだからです。

 

柳蓮二、主人校に属しているわけでもなく主人公と戦うわけでもない、いわばサブキャラクターなのに原作でやたら過去のエピソードを掘り下げられます。乾とダブルスを組んだ過去、まだ詳しくは明かされていないあくととの過去、毛利との確執。柳は徹底して過去、しかもどこか澱んだ過去を振り返り続けるキャラクターです。未来を予測するにしても、原作の新テニであくとと対戦した際に自分の負けを予測できてしまうからこそ戦意を失ってしまったりと、決して明るい先行きだけを見ているのではありません。

乾も、データがあるからこそ希望がない状況を理解できてしまう。関東氷帝戦で手塚に棄権を勧めた時も、乾は手塚が勝つ確率が極めて低いことをわかってしまっていた。

過去と未来の時間軸の中に立たされているということ、データによって未来がわかってしまうということは常に悲しさと絶望をはらんでいます。

 

それに対して、彼らのダブルスパートナーである海堂や赤也の視界に入っているのは常に目の前にある試合です。煽られたら即ブチ切れがモットーの海堂と赤也ですが、過去を振り返らず未来を悲観せず試合に向き合うということは、盲目的な野心と希望を持ち続けられるということでもあります。

急にアニプリの話になってしまうけど、キャラソンの《HIKARI》で「俺に見えてる全てが 俺の世界の全てだ」って断言できてしまう赤也の強さと盲目さは本当に眩しい。柳さんは絶対そんなこと言えないもん。

引退を前にした3年生である乾と柳は、野心と希望の象徴であり来年の青学と立海を継ぐ2年生である海堂と赤也に最も親しい存在です。ドリライ2018の演出ではその後輩との対比やつながりを描くと共に更に下のカツオ達1年生世代への継承と連環を示唆することで、過去-未来の時間軸の中に位置づけられるはかきょの性格がより明確にされています。

 

試合後に「蓮二、またいつか、どこかで戦おう」「ああ、楽しみにしている」と言葉を交わすはかきょがテニミュの舞台で再び対戦することはありません。加藤さんは井澤さんを残してこのドリライテニミュを卒業し、そして井澤さんも(恐らく新テニミュに出演する赤也役の前田さんを残す形で)卒業を迎えます。

 いつか青春と勝利に終わりが来ること、いつか次世代への継承の時が来ることを悟ったはかきょのやりとりは、テニミュの卒業システムの切なさにも、次のキャストがテニミュの物語を継承する希望にも重なります。

 あの場面でVTRの代わりにカツオとカチローを未来の象徴として登場させたのは、青学9代目の卒業公演であるドリライのステージだからこそ意味があるのだと思いました。

 

このブログ、キャラクターと役者の二重写しの話何回すんねんって感じなんですけど、あまりにも好きすぎるのできっと一生書き続けます。

以上、喪失と再生が大好きなおたくのドリライ2018感想。