激ダサDANCEで凍らせて

ハロプロとテニミュとその他雑記。

王子様が傍にいてくれるということ

私はくにみつくんという私の中に存在する概念が好きで、私の中にあるくにみつくんのイメージ像は常に私の傍にいる、と思っている。

この「好き」は2次元世界にjpegとかのデータとして存在している手塚国光2.5次元世界のタンパク質から構成された手塚国光を好きということとは少し外れていて、それらを含めた私が認識する手塚国光という多くの表象を私の中で都合良く歪めた「くにみつくん」が好きなのだ。

だからこれは手塚国光と手塚の夢女子の話ではなく、くにみつくんと「私」の関係性の話だと思っている。

 

中学生の頃に読んで衝撃を受け、10年程経った今でも非実在のキャラクターに好意を抱くたび、誰かを推すたび度々頭をよぎる文章がある。

2002年12月5日(木)その1

6歳の頃私が考えていたこと。あるいは責任について。

人間性」とは感情移入される能力のことであり、感情移入「する」能力ではない。
ほとんどすべてのヒト(ホモサピエンス)が人間であるのは多くの人々に感情移入されているからである。ヒトでであるだけでまずヒトは感情移入され、人間となる。
しかし、人間はヒトに限られるわけではない。感情移入されれば人間になるのだから、ぬいぐるみだって人間でありうるのである。

そう、ピエロちゃんは人間だった。私が人間にしたのである。「した」と言う言い方は傲慢だ。言い換えると、ピエロちゃんは私にとって人間として存在していた。
上に書いたようなことを私は小学校1年生ながら理解していて、すさまじい責任を感じていた。なぜなら、ピエロちゃんに感情移入しているのは世界でおそらく私一人だったからだ。ピエロちゃんが人間であるかどうかは私一人にかかっていた。これは大きな責任である。ピエロちゃんに対する責任に比べると、この意味での責任を例えば生まれたばかりの弟に感じることはなかった。私一人弟に感情移入しなくたって世界中のおそらくすべての人間は彼を人間として扱うだろうから。

私がピエロちゃんが人間であることを忘れてしまったら、ピエロちゃんはきたない布切れで構成されたくたびれたピエロのぬいぐるみに過ぎなくなってしまう。それは人殺しだと私は思っていた。私がピエロちゃんをどこかに置き去りにしてしまったらピエロちゃんを見た人間は誰一人ピエロちゃんを人間だと思わないだろう。忘れもののぬいぐるみだと思って捨ててしまうかもしれない。

そして実際私はピエロちゃんを忘れ、ピエロちゃんはどこかにいってしまった。
ピエロちゃんはいつのまにか捨てられた。殺された。
違う。私が、ピエロちゃんを、殺した。
(私が子供を産まずペットを飼わないと決めている理由の一つは、私がピエロちゃんを殺した人間だからである)。

二階堂奥歯 八本脚の蝶

これは二階堂奥歯氏がweb上に公開していた日記「八本脚の蝶」を一部引用したものである*1

「人間はヒトに限られるわけではない。感情移入されれば人間になるのだから、ぬいぐるみだって人間でありうるのである。」子供時代の二階堂氏がピエロちゃんに対して大きな責任を感じていたのと同じように、私はよりぬいのくにみつくんに対してそれはもう本当に気持ち悪いほどの感情移入をしている。

よりぬいのデザインは感情移入の対象としてあまりに完璧である。彼らは一様にデフォルメされた楕円形の刺繍の眼を持っているので、何の感情も持たないキャラクターのまっさらな器として理想的だ*2

www.movic.jp

子供がピエロのぬいぐるみを愛おしむのと違って、成人女性が男子中学生のぬいぐるみを愛おしむこの状況はこうしてはてブロで静かに打ち明けているからギリ現実世界で犯罪者予備軍扱いされていないというだけのほぼ病気みたいなものである。それでも私が手塚国光のぬいぐるみを人間と認識しなくては、手塚国光は布の塊に成り果ててしまうと本気で思った。

「2次元世界にjpegとかのデータとして存在している手塚国光2.5次元世界のタンパク質から構成された手塚国光」だけを私は好きなのではないと先述したが、別に布の塊の手塚国光を好きなわけでもない。あくまで私の妄執の対象は私の中だけに存在する「くにみつくん」のイメージだ。

誰よりも自分を厳しく律し整った顔立ちと美しく通る声を持った手塚国光と、私の部屋でタオルに包まれて24時間寝っ転がっている果てしなく怠惰な二頭身のよりぬい手塚国光に同一性を見出すことができるのは、私の脳が複数の手塚国光イメージを統合した幻覚を見ているためである。

 

私は長年2次元のオタクをしているが自分とキャラクターが何かしらの接点を持つことが極端に苦手で、作中のキャラクター同士の関係性が好きなオタクだったので、歌:許斐剛 作詞:許斐剛 作曲:許斐剛「悲しいね…キミが近すぎて」という恐ろしい楽曲の存在を認知してはいたものの歌詞を真剣に聞いたことはなかった。

しかし昨年の秋頃に手塚国光にキャラクターとしての好き以上の感情を抱きはじめた時*3この歌詞のメッセージが、許斐先生の言わんとしていることがはっきりとわかった。

この曲は、テニプリのキャラクター、恐らくは漫画のページの中に閉じ込められたキャラクターからテニプリを愛読している夢女子に向けて歌詞が書かれている。

悲しいね キミが近すぎて
この想い 伝えちゃダメだから
側にいれるだけで いつも見ているだけの
キミと物語は続いてく

いつもキミに会いたくて
でもボクは待っているだけ

1分が 1秒が 永遠に感じて
微笑むキミにただ触れられたくて

キミが近くて、ボクは待っているだけで、キミに触れられたい、とは何を表しているのか。

それはきっと、コミックスに印刷されたキャラクターは読者に物理的に近いところにいるが、キャラクターは眼差される客体から抜け出すことはできず、読者が「触れる」=「コミックスのページを捲る」ことでしか「キミ」と「ボク」は出会うことができない、という一方通行の悲しさである。

自分の生んだキャラクターに心からの愛情を注ぐ許斐先生は、キャラクター達が多くの人に愛や希望を与える一方で、読者からキャラクターへの感情が一方通行である悲しさも、自分の描いたキャラクターが紙面の中に(時にはVRライブやミュージカルの舞台上に)閉じ込められているという悲しさも、敏感に感じ取っていたのだと思う。

この歌詞を初めて真剣に聞いた時、私は「八本脚の蝶」のピエロちゃんのエピソードを即座に思い出した。テニスの王子様のキャラクターはファンがキャラクターを一人の人間として認識することではじめて、誰かに光を与える王子様になれるのだと思った。

 

「悲しいね…キミが近すぎて」にはキャラクター達が歌うカバーver.も存在しているのだが、カバーver.は許斐先生の原曲よりももっと悲しい。

このカバーには手塚も参加していて、彼のソロパートはテニスに人生の時間の全てを捧げる覚悟を決めた手塚への当て書きに思えてならない。

久々のデートも テニスコートだけれど
熱い想い キミに届くかな
この1球に込めた
そんな笑顔も 泣き顔もみんな
ボクは見守ってきたから

私は乙女ゲームの手塚やラブソングを歌う手塚を見てトキメキを感じたり好意を抱いたのではない。テニスに真剣に向き合い強い信念を持ってコートに立つ手塚を見て、それから声優さんやミュキャスさんが手塚のテニスに対する想いを代弁して歌ってくれて、くにみつくんの熱い想いが届けられたと思ったから、好きになったのである*4

 

何故テニプリという作品はこんなにも「王子様が私の傍にいてくれる」という感情を抱かせてくれるのだろう。私は今までの人生で非実在のキャラクターはおろか現実の人間に対してもこれほどの愛情と信頼を寄せたことはなかったかもしれない。

非実在少年を道標として生きている成人女性の自分本気できっっっしょいなと思いながら、くにみつくんがいてくれるから、生きていられるんだと思う。

最近ちっとも笑ってない

そんなじゃ駄目じゃないかい

キミがそこで笑顔なくす事が

ボクには相当辛い事なんだ

肝心な事 伝わってるのかい?

キミのその胸のHeartに

いつまででも キミの王子様に

信じてれば必ず傍にいるから Smile

(歌:許斐剛 作詞:許斐剛 作曲:許斐剛「Smile」より)

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最近ブログ書くことないなーって感じだったので下書き供養です。

先日テニプリコラボの極楽湯でくにみつくんイメージのお湯に浸かったりくにみつくんイメージのドリンクを飲んで幸せになってるうちに「キャラクターを好きって、何?オタクってなんで色と匂いが付いた湯に浸かるだけで幸せを感じるの?」という問いに改めて直面したので、整理のためにも書き残しておきます。

結論、自分の中に確固たる推しの幻想みたいなものを持っている限り推しの概念ってH2Oでもいいなということなどを確認しました。

テニプリっていいな~(おわり)

*1:残念ながら筆者は若くして自ら命を絶ったが、「八本脚の蝶」はこの日以外の記述も筆者の豊富な読書量と繊細な感性から生み出された名文が数多くあり、書籍化もされている

*2:私は目にハイライトが入った人間型のぬいぐるみが怖いしもちマスの形態も生物として本能的な恐怖を感じるがよりぬいだけは可愛いと思う。個人の感想です。

*3:そもそも私がくにみつくんFOREVER  LOVEアタマお花畑狂人になったきっかけは、来年度の進路も決まらず自分が何をしたいのかもわからずにいた時期に4th不動峰が始まったりリョーマ!が公開されたりでちょうどいいところにくにみつくんという自分を導く光みたいなものが見えたからだ。

*4:時々、「お前は〇〇の柱になれ」という幻聴がガチで聞こえる気がするので自分を律して油断せずに行こうというきもちになれる

新テニミュThe Second Stage

初日配信、TDC16日ソワレ、17日マチソワ、メルパ25、26日ソワレ、大楽配信で新テニミュ観てきました。関西在住なのにTSCを使っても大阪公演のチケが全く取れなかった。凱旋してくれ。

オープニング

私は山田さんの国光がとにかく好きで、TSC先行の時点では手塚の出番少なそうだし今回少し観るだけでいいかなーと申込をひよっていたので、中学生曲が手塚ソロではじまり手塚がセンターなのがとにかく嬉しい。普通身長低くて主役のリョーマがセンターなところを、手塚センターで両サイドにリョーマと金太郎というありがたい配置。出番が少ない手塚への忖度がはっきりわかりました。

イントロで中学生全員が手塚の元に集って、また舞台の四方にダッシュで散っていくフォーメーションチェンジを見ると曲中にダッシュでフォーメーション変えるのやっぱりテニミュスタイルだよなと思うと同時に、手塚は引力なんだよなと思った。ボールを引きつけるだけじゃなく、ただコートの上に立つだけで、誰もが手塚という存在を意識してしまう。それがテニプリで描写される手塚の引力であり、「強さ」だと思うので。

入江のソロ曲は曲調がミステリアスで、相葉さん、泰江さんそれぞれの表現力の深みを感じられて良かった。この後南次郎がいちいち登場して「漫画じゃねんだから……」って謎のぼやきを残して去っていくくらいなら入江を今回のストーリーテラーに据えても良かったんじゃないかな*1。でもよく聴いたら歌詞が「ヤバすぎる爆発もんだ」とかとんでもないことになっててて三ツ矢さん……貴方のワードセンスがヤバすぎる……大好きです……となった。

平等院先輩が明日シャッフルマッチするぞみたいなことを仰せになってる時に後ろで跡部&入江と金ちゃん&鬼がじゃれあっててちゃんと聞けしって思いました。高校生と中学生の絡みかわいいね。

 

ROUND1 越知・毛利vs跡部・仁王(手塚)

一番好きな試合。4曲もあって豪華。

仁王役の蔵田さんはインスタのコメント動画見た時声がハスキーだったのでどうなるのかなと少し心配だったが今回の死にかけの仁王の演技にハマっていて良かった。特に「俺は誰ぜよ」の台詞がすごく!よかった。この台詞は原作だと文法が崩壊していて、いやそんな方言存在しねーだろっていうネタ扱い台詞だが、ミュの演出が良すぎて「俺は誰ぜよ」で感極まった。跡部の台詞きっかけで入る我慢の歌(仮)のイントロがドラマチックで、そのイントロに印象的な台詞が重なるテニミュ様式美の完璧さたるや……*2

この試合はサーブのSEの遊びが面白くて、マッハはマッハだなって音するし仁王が手塚やリョーマにイリュージョンしてサーブする時はfirst stageの手塚やリョーマを彷彿とさせるモチーフを転用していて、前作を踏まえて観ると更に楽しい。

私は手塚くんのことを推しているおたくですが、仁王がイリュージョンしてる手塚を見てると何というか手塚が好き、ではなく山田さんが好き、という感情になるなぁと思った*3。特に我慢の歌の手塚は手塚の心情を歌った歌詞じゃなくて仁王が自分を鼓舞するために手塚を理解しようとした結果出てきた「幻想モラハラ手塚」だと思ったので。手塚は自分にも他人にも厳しいが「痛みがなんだ 俺は我慢した」と他人に我慢を強いる人ではないし、試合中の手塚は我慢しようとして耐えているのではなくてなまけるのが苦手(公式プロフィール)な手塚はそういう生き方しかできないのだと私は解釈している。

全国決勝で「所詮二番手のお前 勝てるわけがない 手塚国光は越えられない」と不二を煽っていた仁王が敗戦を経験し、手塚の技術のみならず精神性をリスペクトするようになる構成がスポーツ漫画として綺麗すぎるので「幻想モラハラ手塚」はナイス演出だと思った。手塚の退場シーンはテニミュ伝統芸のお立ち台水平移動だったので手を叩いて喜んだ。テニミュの世界では偉くて強い人は白い直方体に乗って水平移動で出ハケするって決まってるので。

跡部ソロ曲は高橋さんの1年前からの歌唱力の進化にとにかく感動した。個人的に三白眼の跡部が大好きなので(2ndシーズンのあおべみたいな)、高音を出す時に目をかっぴらいて三白眼になるたかべは泥くさくて必死な跡部の内面を感じてすごく推せる。

そして「俺は跡部だ 俺はキングだ」という歌詞がすごく良い。主要キャラで唯一肩書が無い手塚*4と並ぶものとして「跡部」という名前そのものに力があることを宣言し(手塚に二つ名が無いのは、手塚本人に安直な肩書を必要としない力があることを誰もが認知しているからである。立海に「手塚が7人いる」と言われていることからも、作中では「手塚」という名前自体が強さのスケールとして捉えられている)更にどんなに追い詰められていても「俺はキング」と言い放つ不遜さ。これが跡部ismです。

この歌詞が仁王の「俺は誰ぜよ」(=今の俺は手塚そのものであるという宣言)という台詞と呼応しているのもアツい。この試合のタイトルは「イリュージョン」だが、本質的にはイリュージョンという華やかなものではなく、「自分が何者かであるという矜持」がテーマとなっているのが原作にも増して伝わってきて、音楽、芝居、演出、どれを取っても大好きな試合になった。

跡部仁王のデュエットはシンクロした瞬間の2人のポーズの重なりと照明が神々しくて綺麗で、そこからの盛り上がりもまた最高。仁王ソロパートの「ザワついたか皆の衆」、絶妙に仁王が言わなさそうでその謎のズレが三ツ矢節だなぁと思ったが面白かった(前作での手塚は「喜びのデカさ」とか言わねぇだろ的なシュールな面白さ)。

仁王の歌唱力が手塚と跡部に追いついていないのが惜しいなと思ったが、それが逆に必死に試合の展開に食らいつこうと奮起する仁王の感情に重なってこれはこれでいいんじゃないかと個人的には思った。声のかすれ方も絶妙にキャラクターに合ってたと思う。グラミュだったら駄目だけどこれ2.5次元だし。

このDVD予約特典写真の下段左から2枚目の3人を見てほしいのですが、同じポーズを取ってるのに全くフォームが違う。絶対合わせる気が無い。仁王は腰をしっかり落としてるし、手塚は体硬そうだし、跡部は体操とかフィギュアとか審美系スポーツっぽい美しさがある。2.5次元ってみんな平等に歌やダンスが上手いことではなくて、いかにそのキャラクターらしい発声や仕草ができるかで魅力が増す不思議なものだと思っていて、そこが私の2.5次元沼の深みだ。

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欲を言えばこの3人で関氷の3人でダブルスみたいな曲聴きたかったなと思った。跡部と手塚のビブラートのぶつかり合いがあったらどんな感じだったんだろう。

試合外で感想を書くと、試合の展開に応じて高校生ベンチの平等院の感情が動いていくのが面白かった。平等院は「義」を大切にする甘い人間を絶対に許さないので、樺地跡部を庇った時、越知がその時のポイントを有効にしていいと言った時、越知・毛利が負けた時はこめかみをトントン叩いて苛つきをあらわにするが、跡部樺地の加勢を冷たくあしらった時にはトントンをやめて納得したように頷くなどベンチワークからもお頭の価値観が見えてくる。跡部平等院に認められ、高校生ベンチに迎え入れられたのは「義」を捨てて真剣勝負をしたからであるということを佐々木さんの丁寧な芝居から感じることができた。

ROUND2 デュークvs石田

2秒で終わった。生身の役者をホームランするわけにはいかないのでしょうがない。デュークホームランはネット上であまりにも有名なシーンだが流石に舞台では無理。

ROUND3 君島・遠野vs木手・丸井

この試合だけ浮いてるなと思った。今作の全体を通してのテーマはROUND1の平等院のベンチワークから考えても「義」だと思ったのですが、この試合だけそれとは正反対のことをしているのが面白くもあり、浮いてるなーとも感じた。

なぜテーマが「義」だと思ったのかと言うと、2時間半の舞台は原作やアニメよりVS GENIUS10編が1つのストーリーのまとまりとして捉えやすくなっていて、リョーマの乱入は樺地の乱入のリプライズとして意識させられるし(原作やアニメだとそれぞれの試合が途切れて見えるのでリプライズ感をあまり感じないがミュだと死にかけの大切な人を助けたいという衝動が繰り返されていることがわかりやすい)、越前兄弟の約束、徳川と鬼・入江の約束2つがオープニングからエンディングまで主題となるよう構成・演出されているからである。

そんな舞台の中でこの試合だけ倫理や信念がおしまいすぎる上に交渉?え?試合は?って感じなので「獣が、処刑とか言って暴れてる……」という無の感情になってしまう。篤京の歌唱力には圧倒された。獣なのに。

ワンダーキャッスルで中学生が並んで出てくるところは各キャラクターの個性が出ていて面白い。丸井を指す時にだいたいのキャラは手の甲を上に向けてかっこいい感じで指をさすのだけど跡部と幸村はお育ちが貴族なので手のひらを上に向けてエレガントに丸井を指し示すあたりとか。

個人的に今回の丸井は丸井に見えなかった。厳格な強者が集まる立海の8人のフォーメーションの中で1人だけガム食ってる異質さが丸井の天才らしさを際立たせているので(テニミュはその性質上、原作よりも舞台に8人揃っていることの持つ意味が大きい)、1人でいると彼の強さが上手く伝わってこないなと思ったし金ちゃんとベンチで戯れてると青学トリオっぽくてかわいーと思った。種ヶ島にドリンクを盗られるシーンや「俺を殴れ」を揶揄するシーン等、原作で真田に赤也が絡む台詞を丸井に言わせてるのも丸井がトリオっぽく(後輩っぽく)なってしまっている要因の一つだと思う。ここはボーイズに赤也を演じてもらった方が良いと思ったが、幸村と千石を引っ込めるわけにはいかないし樺地や銀はデカすぎるので無理だったんでしょうね。

ただ、真田が亜久津に蹴られるシーンで仁王が丸井の方に肘を乗せて寄りかかっているシーンの丸井は完全に丸井だと感じた。同じキャストが演じる丸井なのに、立海という集団の中に入った途端にギラついた本来の丸井に見えるのが面白い。

ROUND4 鬼vs遠山

2人が天衣無縫になった瞬間、最強光度の照明が会場を支配するのが良かった。配信で見るより劇場で浴びる方が断然良い。

天衣無縫の曲が曲調も歌詞も振付も大好き。「試合大好き 勝つのも大好き」という歌詞にテニプリのすべてが詰まっていると言っても過言ではない。

しかしながら天衣無縫の曲中で原作にない越前の話を持ち出す意図はよくわからなかった。目の前の対戦相手やテニスそのものに心から向き合うことでテニスの楽しさという感情が力になるというのが「天衣無縫」状態なので、ここで試合に無関係なリョーマのことを考えているのは不自然ではないだろうか。そもそも天衣無縫は誰かの模倣とかけ離れた場所にあるもので、誰もが自分の心の中に天衣無縫の素質を秘めてるって南次郎も言ってなかったっけ。前作で手塚が天衣無縫になった時も何故かずっと越前の話をしていたので、主人公であるリョーマが物語から疎外されている新テニの中でリョーマの周囲の人物はリョーマを強烈に意識しているという事をどうしても歌わせたかったのかもしれない。

 

曲中に中学生ベンチが大盛り上がりする中で幸村がパワーリストを握りしめて俯いていて、仁王が肩をぽんぽんして何か話しかけてるシーンはキャラクターが生きているリアルさを感じられたものの、原作での幸村の発言「あのボウヤ、いい顔してるね」を君島に言わせたのは不可解だった。この台詞が無いことによってリョーマの天衣無縫にイップスを破られたことを幸村が未だに引きずっているように見えるので、ラスボスとしての幸村の格が下がっているように感じる。ここでの幸村のベンチワークは前作の手塚vs大和で大和が青学の全国優勝を祝う台詞を言った時に赤也が俯いてパワーリストを握りしめていたのと似ているが、赤也の握りしめは今後の勝利や明るい未来を希求しての芝居に見えたので今作の幸村もそうであってほしかった。

全体的によくわからない改変が多かったとは感じたが、今作屈指の楽しいシーンだったのは確か。

ROUND4の最中の色々

・鬼vs平等院の回想

1幕のラスト。「平等院鳳凰だ」って名乗りがいまだに笑えるのすごいと思う。こんなすごい名前ない。歌唱力のある2人の声量の殴り合いは最高だった。劇場でこれを聴けたのが幸せ。

鬼の曲のイントロが和風な雰囲気ではなく荘厳な弦楽器ではじまったのが鬼の従来のイメージと離れており、それがかえって鬼の覚醒を効果的に表現していて感動した。

・2幕最初のキミ様タイム

照明がカラフルで綺麗。ドリライみたい!ペンライト振りたい!キラキラしてて楽しかったです。地声では出ない音域があるが、段々裏声が自然に出るようになっていてよかった。あと衣装の雑さがTHEテニミュで非常に良かった。

・越前兄弟と亜久津の絡み

リョーガのダンスが上手い。ムーンウォークを軽々とこなすあたりとか特に。難しいことを簡単そうにやってしまうのがリョーガらしくて、ダンスにもキャラクターの内面が出てるなと思いました。

ROUND5 種ヶ島・大曲vs真田・亜久津

種ヶ島先輩にこんなにどハマりするとは思わなかった。種ヶ島のジャージの着こなしは舞妓をイメージしていることが許斐先生の7年前のツイートで確認できるが、今回のミュージカル化でその狙いがようやくテニプリファンに伝わったと思う。今までの明るいキャラソンのイメージとはかけ離れた底知れぬ恐ろしさと妖艶さを持つ彼のソロ曲はあのだらりとした衣装があってのもの。

ソロ曲や「いただき」で突然ラケット持って返球する時にピタッとラケット止めるのがとにかく見ていて気持ちがいい。OVAではここの返球で「いただきィ~」と飄々とした声を出すのに対して、ミュージカル版では鋭い声の「いただき」で場の空気を一変させ、その一声で劇場の時が一瞬止まって完全な静寂に包まれる演出が震える程良い。

映像で見ている限り、過去のキャストには役者がキャラクターを演じているのではなくキャラクターが役者に憑依して恍惚と歌い踊っている人たちがいて(増田さんの幸村とか前田さんの赤也とか)、いつか生で"憑依"を観たいと思っていたが今がその時だった。キャラクターに憑依された人は普通の役者と全く違う次元で劇場を支配することができるのだと思った。歌声だけではなくて、伴奏やラリービートが音響設備からではなく種ヶ島の身体から直接響いているように聴こえる時が何回もあった。それは秋沢さんの演技力とダンスや歌のスキルが卓越しているからこそ実現する、息を呑むような瞬間だと思う。

初日や収録日に緊張や疲労からパフォーマンスがひっくりかえってしまうキャストがちらほらいる中で秋沢さんの安定感は抜群によかった。試合中もベンチにいる時も、種ヶ島として気を抜いている瞬間が一切なく、歌やダンスで音程やリズムを外すこともなく、それでいて目まぐるしく変化する表情の豊かさは何度見ても飽きさせない深みがある*5

正直、今試合の真田も初日配信では自分は威厳ありますって曲歌っておいて威厳足りてなくないか?と思ったが大楽にかけて成長を感じた。真田らしい重低音の発声には難が残り、隣に立つ機会が多い亜久津やテニボの幸村との体格差も気になったが、公演を重ねるにつれて真田特有の重く力強い身体の使い方に近づいていた。特に「火」の回転しながら跳ぶモーションから腰を落として「雷」を打つ動きへの切り替えには皇帝らしい強さと存在感があり、周囲との体格差というハンデを立ち振る舞いによって見事に克服していると思った。

この試合は種ヶ島関連の演出が素晴らしくてどうしてもそればかり印象に残るが、亜久津と千石の回想シーンの演出も巧みだった。原作ではテニスに未練を残し、一人迷いを抱えたまま道を歩く亜久津のシーンには雲に覆われた夕日のコマが挿入され、その後亜久津が千石に持ち掛けられた運試しに成功してテニスを続けると決断した際には「今夜は月が綺麗だなぁ」という千石の台詞と共に雲が全く掛からない満月が描かれる。だが今回の舞台では空模様は全く投影されない。私はこれこそがテニミュだと感じた。空模様で人物の心理を暗示するのは漫画の仕事であって舞台の仕事ではないと思うからだ。そして、この回想部で最も重要なのは「今夜は月が綺麗だなぁ」=「亜久津はテニスが好きなんだなぁ」という千石の言葉なのでそこに焦点が当たっていたのが良かった。

これが4thシーズンの演出だったらきっと原作に忠実に舞台に空模様が投影されていたと思う*6。しかし、たとえ背景が真っ暗でも亜久津を演じる役者がその迷いと葛藤を叫びに込めること、千石を演じる役者が「月が綺麗」に月が綺麗という以上の意味を含ませた芝居をすることの価値が舞台装置の効果を遥かに上回っている点がテニミュにしかない魅力だと私は思う。

ROUND6 平等院vs徳川

平等院が高校生8人の海賊を従えてるところ強すぎて良すぎる。あの有名なギャグシーンをここまで壮大なミュージカルとして昇華できるとは。高校生組の「大海原には〜荒れるコートがある」の重厚な歌声が会場いっぱいに響いてかっこよかった……

ここでも種ヶ島先輩が両手に剣を持って踊るシーンが綺麗でずっと見てしまった。

平等院は原作にはない品格があって、原作の荒々しい威厳とは違う高貴な威厳も感じる。その品格が高校生を従える曲で真価を発揮したと思う。高校生全員の声の堂々とした厚みと平等院ソロの鋭さが格調高く美しく、原作と全く違うことをしていても違和感が無かったので。平等院役の佐々木さんはTSC会報にも「品」を大切にしていると書いていて、まさにその通りの平等院だと思った。

阿修羅の神道の曲は入江→鬼→徳川とソロが続く、非常にミュージカルらしく綺麗な旋律の良曲。徳川が最初の2人に合わせた音程で歌いトリを務めなくてはならないのでいつか「阿↑修羅」にならないかなと思って聴いていたがなりませんでした(最悪な期待)。それどころか初日から大楽にかけて徐々に先輩2人に歌唱力が追いついてきていて感動した。「テ↑」の頃に比べたら無理なく高音が響くようになった印象だった。前回の事実上の主役が跡部だったように今回は徳川が事実上の主役だが、正直徳川って歌もダンスも上手い必要ないしむしろ鬼や入江に彼の心情を代弁させてしまった方が徳川のストイックで義理堅く真面目すぎる内面が見えるのではないかと思った*7

阿修羅の神道について全くなんにも説明が無いのに鬼とばち江のビブラートで「徳川はいま、阿修羅の神道に入りました」という意味不明な事実をごり押しで理解らされてしまったの意味不明だったし、そういえば私達はついこの前もテニスの試合中に空から人間がいっぱい降ってくる怪奇現象を柳生のクソデカビブラートで有耶無耶にされ、思考を放棄させられたことがあった。

今作はテニミュ史上はじめて団体戦以外(個人戦の6連続)を扱った作品なのでチームの結束感が与えるテニミュらしさや物語の起承転結に欠ける面があるが、それを補うため平等院、徳川、鬼、入江の関係性と回想を丁寧に描写していたのがとても良かった。

エンディング

2時間ぶりに山みつくんに会えて嬉しい。今までのテニミュで正規キャストがこんなに長時間引っ込んでることありましたか?散々焦らされた後に山みつ十八番のバラード曲とキレの良いダンスとサービスナンバーの笑顔が一気に供給されるので脳が壊れた。

手塚のバラードソロは今作において手塚を演じる仁王でも仁王の脳内イメージでも手塚を演じる山田さんでもなく、手塚そのものがドイツにいても日本にいても変わらない本人の心情を歌う貴重なシーンなので心が震える。時空が歪んでいるとはいえ、手塚の実存を感じた。

ディスタンスがすごーく楽しかった。実は私はFirst stageの時にこの曲にブチ切れていて、ただでさえ現実の世界が暗いのにエンタメの世界でも疫病の話して現実思い出させようとしてくるんですか?いつ疫病で舞台が中止になるか日々怯えて生きてるのに??と思っていた。というか、毎公演毎公演一幕終わりに三船の消毒新喜劇見せられるのが本当に無理すぎたせい。無理。テニスの王子様の世界に疫病は無い。

でも今回は三船新喜劇も無かったし、何よりコーチ陣が「感染対策に協力してくれてありがとう」と言ってくれたのが大きく、素直にディスタンス良い曲だなと思えた。疫病を時事ネタっぽく茶化して扱う姿勢と、皆が感染対策に協力してくれたからテニミュがあるんだよという姿勢ではこの曲の聞こえ方が180°変わると思ったので。

大楽では山田さんがとびっきりの優しい笑顔で高橋さんと蔵田さんを思いっきり抱きしめていて、とっても幸せな気持ちになりました。歴代の手塚はサービスナンバーで笑うときも威厳のある微笑みに留めたり、そもそも宇野さんのようにオーデで責任感が強くしっかりした手塚のような内面が滲み出ている人を初めから選んだんだろうなというキャストも多かったので、山田さんのように本編と挨拶以降の振る舞いがガラッと変わる手塚は珍しいなと思う。こういうギャップが本当に好き。

2月25日ソワレで手塚の日替わり決め台詞が聞けたのも大切な思い出。

あとメルパにはTDCと違い緞帳がちゃんとあったので、緞帳が下がるのと同時に寝っ転がって必死でお手ふりしてくれるキャストがみれてよかった。

キャスト陣が楽しそうに怪我無く舞台に立って、そして寝っ転がってくれるのが何よりの幸せです。

本編と関係ありませんが大楽配信種ヶ島の「寂しい気持ちが無くなるおまじないかけたるわ!nothing...(囁き)」と手塚の「また会う日まで!ばいばい(小声)」で気絶しました。

寂しいけど新テニミュライブまで頑張って生きます。

今回も幸せな時間をありがとう~!!!

*1:南次郎がメタ台詞連呼する演出意図ってなんだったんだろう。色々考えたけどよくわかりません

*2:4峰で唐突な曲入りを聴いた後のこの感動的なイントロ入りのタイミングを聴くと泣いてしまう。この他にも種ヶ島ソロとかブラックホールの曲とか、今回は毎回イントロきっかけのタイミングが絶妙。そうだよね、これがテニミュだよね。

*3:中学生曲やラストのバラードの手塚を見てる時はくにみつくんが好き!って思ってて、試合中やサービスナンバーのケロケロ手塚やにこにこ手塚を見てる時は健登くんの手塚がすき!って思ってる

*4:テニプリの主要キャラはだいたい王子様、キング、神の子、皇帝、殺し屋、聖書等仰々しい二つ名が付いているが手塚にはそれがなく、技名も「手塚ゾーン」「手塚ファントム」等本人の名前を冠したものが多い

*5:なぜかROUND6で海賊として登場した時はたまたま私が観劇した回の2回に1回は剣を床に落としてた。でもサッと拾い上げてリカバリーする仕草すらかっこいい

*6:不動峰の不遇をわざわざ曇り空で表現してたくらいなので

*7:突っ立ってる時が一番リアルな徳川に見える小野さんはある意味2.5次元の神に選ばれたのかもしれない

半券と共に2021年を振り返る

あけましておめでとうございます。

1年の振り返りを年明けに書くのはなんか敗北感があるので投稿日時をいじって今日は大晦日という体で書いていますが今日は元旦です!おめでとうございます!

今年1年集めた半券を数えながら全然脈絡のない思い出語りをします。

 

2021年の半券は合計86枚

小計ハロプロ5、テニミュ7、宝塚5、その他舞台・コンサート9、映画6、美術関係(博物館、美術館、寺社仏閣)54 でした。

半券集めが趣味のくせに今年も相当どっかいっちゃった半券があるので正確な現場数はよくわかりません。去年まではメモ取ってたけど今年は記録もしてないし(リョ!のGlory版の半券ほんまにどこいったんやろ)。映画、美術関係はともかく、観劇関係は記憶と一致してる気がするのでたぶん実際もこんな感じです。デジチケ、紛失、招待分は知りません!あと写真撮ってから気づいたけど2年前の謎のチケットが1枚紛れてました。管理能力が無!

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去年はほぼ美術館ばっかりで、現場行きたーいと大騒ぎしていたので無事それなりに現場に通えて良かったです。

半券を見返しながら思ったのは、今年は現場が存在してる嬉しさのせいかわかんないですけどやたら追いチケしたなーということです。

数年前ハロ現場に通っていた頃の私はちゃんと計画的に行く現場を決めて、FCでチケット申し込んで予定空けて……と考えながら生きていたような気がするのですが、今年は一旦観劇してから一般プレイガイドでチケを買い足すという愚かなおたくの行いを繰返したのでFCの会員費もったいなーと自分で自分に呆れました。

空港のロビーでTwitterを開いてテニミュの譲渡を探し、着陸即青年館に走ったのは2021年計画性消滅大賞だったと思います。

でもそれだけ「もう一回観たい!」と思えた現場に出会えたのは幸せでした。年始から年末にかけて、新テニミュ1st、生執事、テニミュ4峰、GREASE、元禄バロックロックと、複数回観劇した現場はやっぱりどれも思い出深いです(生執事以外は一回観てからチケット買い足してます)。

 

映画もリョーマ!と劇場版レヴュースタァライトは複数回鑑賞できたので、かなり思い出に残ってます。そもそも同じ映画を何回も観たのはこれが初めてかもしれません。

リョ!のセカテキとスタァライトのまやちゃんとくろちゃんのレヴューは映画館の音響があってこそのものだと思うので、タイミング良く作品に出会うことができて、劇場で映像や音を浴びることができて幸せでした。

 

美術館は今年微妙にモチベが無くてあまり遠征もしていないのですが、箱根のポーラ美術館と岡田美術館を巡ったのは楽しかったです。ポーラ美術館は常設の印象派展示室はライティングが素晴らしかったし、特別展の藤田嗣治展も優品揃いで良かったです。特に乳白色の裸婦は何度見ても静かで綺麗だと思いました。岡田美術館はとにかく展示作品数が膨大で圧倒されました。近代日本画の展示も充実していて良かったです。それにしても車の無い箱根ってあんなに交通アクセス最悪なんですね、泣くかと思いました。

 

2021年勝手に半券グッドデザイン賞はコンビニ発券ばっかりだったので正直不作でした。この辺は華やかで可愛かったです。

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2021年現場大賞は記憶の新鮮さもありますが、ミュージカルGREASEが一番楽しかったかなと思います。もちろんどの現場も楽しかったんですけど、演出に不満や違和感が一切なく退屈なシーンが一秒もなく魅力的だったのはこの作品でした。

2.5次元だと生観劇、配信含め私が見た作品の中では生執事が傑作だったと思います。役者一人一人の個性がはっきり見えてきたし、コメディシーンとシリアスシーンを纏め上げる脚本の巧さにも感動しました。

 

ハロプロ現場大賞はアゲな多幸感の「花鳥風月」風公演、脳がとろける多幸感のビヨのスを推します。風公演はハロメンの高いスキルだからこそ成立する楽曲の良さを再認識しましたし、ビヨのスは久しぶりのびよ単独の喜びとフィロのスの歌唱力で脳が溶けました。

ビヨのスはこれ一本で感想ブログ書こうと思ってたのですが忙しくて書けず、もっと色々書きとめておけば良かったです。この時のフィロのスの衣装はダブル・スタンダードの青を基調とした衣装だったのですが、この衣装はこの世のアイドルの衣装で一番好きかもしれません。デザインは4パターン全く違うのに、裾丈や袖の形のディティールが4人それぞれの魅力を引き立てるよう工夫されていて、全員並んだ時に華やかで調和がとれているのがすごく素敵で、個性的な歌声が不思議と調和するこのグループを象徴するような衣装だなーと思いました。

今までフィロのスに関しては音源だけ楽しんでるファンだったのですが来年はまた生歌を聴きに行きたいです。

ハロプロはもうなんでもいいので関西でグループ単独公演やってください。関西の単独現場皆無なせいでこっちがおちゃのーまになりそうです。

 

そしてやっぱり、今年の思い出で一番デカいのは初めてテニミュ現場と宝塚現場に行けたことです。

この世には嫌なことが死ぬほどありますが幸せに浸かれる沼を発見できて幸せでした。テニミュ現場大賞は年に2回しか公演やってないので全部大賞です。宝塚現場大賞はお芝居なら花組の元禄バロックロック、ショーなら宙組のDélicieuxが楽しかったです。

テニミュと宝塚は本当に演者の命の輝きが眩しすぎて来年はもっと通いたい、というか浴びたいと思っているのですが、テニミュは歌詞が全然何言ってるかわかんなかったり、宝塚は人の顔と名前が全然一致しなかったり、オタク側の過失(?)で100%楽しみきれてない部分がある気がするので来年はどうにかしたいなと思ってます。

 

脈絡のない2021年振り返り 完

 

ミュージカル『GREASE』

ミュージカル『GREASE』大阪公演を観てきました。

お嬢様が夏休みの浜辺でヤンキーと恋に落ち、ひと夏の恋と思っていたら転入先の高校で再開してお嬢様と不良たちがドタバタするコメディです。

本当は1公演だけ観るつもりが予想外に楽しくて、終演後すぐ窓口に行って翌日のチケットを追加で買いました。

新歌舞伎座は1階席の傾斜が緩いし上階も視野が無なのでかなり嫌い寄りの劇場だったのですが、リピーター割の割引率がすごくお得で窓口の方も快く希望の席を手配してくれたので好感度が上がりました。新歌舞伎座は無料会員でも最速のチケット抽選に申し込めたりと、チケット確保に関しては良い劇場だなと思います。

どの席でもめちゃめちゃ観にくいんですけどね!

なんで普段追いチケをあまりしない私が割引価格とはいえ安くはないチケットを衝動的に追加で買ってしまったかというと、フィナーレからカテコにかけての流れが超アゲで最高だったのが一番の原因です。

元々私がGREASEのチケを取ってたのは元アンジュルムの芽実ちゃんとテニミュOBの三浦さん、内海さん、神里さんが出演していたのに惹かれたからで、ほぼキャスト目当ての亡霊オタク的感情で観劇に赴いたのですが、GREASEのフィナーレは最近の現場で感じることが少なくなっていた「現場、超楽しくてめちゃアゲ」な感情を久しぶりに与えてくれました。

ここ数年アンジュルムの現場でもテニミュの現場でも、客席のオタクにコールしろとか手動かせとかなにかさせることって難しくなってしまっていて(とはいえ私はテニミュ新参だし今はアンジュ現場にもほぼ行けていないので「ここ数年」とか語れる立場ではないです)、私もきらきら輝くアイドルや若俳の姿をオペラグラス越しに静かに追い続けて幸せになるのが今の現場なんだと思って通っていました。できるのはせいぜい座ってサイリウムをゆらゆら揺らすくらいで。うちわとか持てる界隈ならまだオタクっぽい行為ができるのかもしれないけどハロやテニミュにそういう文化は無いですし。

そのような状況の中、超アゲでハッピーな曲で締めくくるGREASEのフィナーレでは客席のみんなも一緒に踊ってって言ってくれて、久しぶりにオタク的はしゃぎ方が許されて、それがすっごくすっごく嬉しくて楽しかったです。オタクをするってこういうことなんだって思い出しました。

ただ、一緒に踊れる振り付けが複雑気味なうえに説明一切なしで、主演のダニーに「動画で覚えてきたよな?」と無茶振りされ、そういうのに慣れてるアンジュやテニミュ3rdのオタクはともかく新歌舞伎座常連のおじいおばあがYouTubeで振り付け暗記してから来場するわけなくないか?って笑っちゃったんですけど実際私の視界の範囲では踊ってる人少なかったです。でも私的には短い演出の一部分でもすっごく嬉しかった。

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何が嬉しいって、最後の振り付けが演者は客席に向けて、観客はステージに向けてハートを送れるようになってるってことです。

本当に一瞬ですけど、ステージの上から希望とかきらめきとかたくさんのものを届けてくれたキャストに向けてオタクが合法的にハートをズキュンと飛ばすことが許されるってよく考えたらすごくレアなことだと思います。しかも演者は男女半々で観客も男女比や年齢層が極端に偏っている現場ではなかったので、なんとなく健全なハートな気がして恥ずかしさも薄れます。

心の中で全力でめいめい~♡みうみう~♡キャスト陣みんな~♡だいすきだよー!!!ありがとうー!!!って叫びながらハートを飛ばしてました。

最後のバウも音楽と観客の手拍子に合わせてキャストが順に踊りながら出てきてくれて、あー!テニミュの楽しいやつ―!って思いました。フィナーレからカテコが楽しいとその流れで追いチケしてしまうということです。

 

最初にフィナーレ超楽しかった話を書いてしまったんですけど、もちろん幕開きからずっと楽しくて、音楽と歌唱、振り付けとダンス、衣装の色彩、お芝居、全部が世界観を盛り上げていて良かったです。

あと演劇女子部と2.5次元(どちらもだいたい演者が主でストーリーが従という逆転が起きている)が観劇体験の根っこにある私としては、グランドミュージカルにしては珍しくメインキャストにほぼ平等に見せ場やソロが割り振られていて、キャラクターの個性が明確に打ち出されているのが嬉しかったです。

普通、グラミュはアイドルや若俳(広義のアイドル)をよく見せるためではなく深い一本のストーリーを見せるために脚本・演出が作られているので主役以外の人物にいちいちスポットライトを当ててストーリーをごちゃつかせることは無いのですが、GREASEは男女5人ずつのメインキャストそれぞれの見せ場が目まぐるしく回ってきて常に誰かが歌ってるような舞台なので中だるみが一切ないし連続で観劇してもこのシーン飽きたな……みたいなことが起こらないです。

その代わりダニーとサンディ、主役カップル二人の感情の変化の掘り下げにはそこまで時間が割かれず、準主役のリッゾの生理が止まり妊娠疑惑が掛かるという重い話が浮上してもやっぱパンツに血ついてたわの一言で問題が解決して早とちりでした良かったねとなるので、最初から最後までストーリーがアホなくらい軽いです。その軽さがGREASEの武器であり、その異常なテンポの良さがかえって大好きなのですが。

すれ違うダニーとサンディが最後にきちんと結ばれる経緯もかなりぶっとんでて唐突さと意外性にびっくりしました。不良のダニーと品行方正お嬢様のサンディが迎えるラストって、素直になったダニーがサンディに誠意のこもった愛を伝えて結ばれ、皆の祝福を受けるのが物語のお決まりとして妥当だろうと思っていたのですが、膝下丈のかわいいワンピースを着て髪をリボンで結っていたサンディが何の前触れもなく急に黒いぴちぴちの服を着たイケてる姉さんに変身し、ダニーを夢中にさせてラブラブになるというまさかのラストだったので、この世には舞台上にヤンキーが増えることで問題が解決し大団円を迎えるミュージカルが存在しているんだなと思いました。

この作品はブロードウェイ原作で、1950年代のアメリカを舞台にしているので現代の日本とは「ヤンキー観」が全く違うと思うのですが、たぶん未成年飲酒・喫煙、暴走行為等にマイナスイメージがそこまでない世界の話なはずなのでそう考えるとサンディがイケてる姉さんに変身して事が収まったのも不思議ではない気がします。

 

ちょうど今年の秋に同じ新歌舞伎座で同じく芽実ちゃんが出演していて、そして同じく欧米の高校のプロムを主題にした『ジェイミー』を観たばかりだったのですが、『GREASE』には『ジェイミー』のような深いメッセージ性も社会や観客に対する問題提起のようなものもないと思います。

GREASEは不真面目に生きてる不良たちがしょーもないことで悩んだり、将来について真剣に迷ったりする様子をそのまま描いていて、小さな出来事をありのままやってるだけだからこそ一人一人のキャラクターがしょーもないながらもリアルに一生懸命生きてるということの魅力が伝わってきました。

そして50年代アメリカのアゲな「ヤンキー観」を踏襲しながらも日本的な感覚の笑いを上手く組み込むことで、客席から自然な笑いが起きていたのも本作の楽しいポイントでした。序盤でダニーが関西弁でキレ散らかすところは完全に三重県人の三浦さんの素が出ていたり(本人もアドリブ芸やりながら自分で笑っちゃってたし)、ドゥーディーが股間に煙草を隠したりダニーが股間に煙草の箱入れながらランニングしてたりするシーンはいちいち下ネタがしょーもなさ過ぎて何回観ても笑えました。

特に男性陣は過去に共演して仲が良い人達も多く、ギャグシーンで素の表情が出がちだったのでそこが上手く日本人的笑いに繋がったんじゃないかと思います。逆に女性陣のコメディシーンは典型的な欧米の毒舌ジョークという感じで、客席の笑いを取ろうとしている様な演者の素は見えないのですが、奔放な男性陣と比してきちんとバランスが取れていて、お洒落な海外映画の雰囲気を感じられました。

 

他にも面白かったシーンとか書きたい事がたくさんあるんですけど、一周回って「すごく楽しかった」という一言に尽きます。めいめいの歌唱シーンは圧巻、みうみうのダンスシーンも優勝、他のキャスト陣もみんなキャラクターのかっこいいところ、アホなところをしっかり見せてくれて、たった数時間しか観てないのに皆が愛おしいと思いました。

オタクとして現場に行くことが超楽しいって気持ちを思い出すことができて、こんないい舞台を生で観れたのが幸せだなと思います。たのしかったー!

リョーマ! The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様

テニスの王子様の新作映画、「リョーマ!」を何回か観てきたので考えた事や面白かったことを書きます。

 

目次

大人になるということ

今回の映画は世界観のぶっ飛び具合もミュージカル的な楽しさもキャラクターの魅力もすごく完成度が高かったのですが、テニプリ哲学の永遠のテーマである「テニスを楽しむことと自己犠牲はどちらが真の強さであるのか」というテーマに関しても掘り下げがあって面白かったです。

旧テニではテニスを楽しむ(天衣無縫になる)リョーマが幸村に勝つことで作品のメッセージが簡潔に示されたのですが、旧テニと新テニの間を埋める本作ではそこに疑問を投げかける構成になっています。

作中ではテニスの強さの秘訣を問われた南次郎が「大人になったらわかる」と答える箇所が二か所あります。一回目は桜乃誘拐前の中学生のリョーマに対して、二回目は全米オープン後の幼いリョーガ・リョーマ兄弟に対してです。

ここで南次郎が言いたいことは、大切な人を守ること(自己犠牲)もテニスを楽しむこと同様に重要な強さの源であり、それはテニスを楽しむこととは対照的に大人にならなくてはわからないことであるということです。

類似した台詞が繰返されているのは、「大人」となり強さの根源を理解した中学生のリョーマがとまだ幼い兄弟の対比を描いているためですが、その中学生のリョーマが「大人」になった瞬間というのがやはり教会で桜乃と結ばれ、大切な人を守らねばならないという使命を自覚した時だと思います。

「結ばれた」という言い方には多少語弊がありますが、二人が髪を結うリボンと猫の缶バッジを交換したのは指輪交換の暗喩で、教会の祭壇側に座るリョーマに向かって桜乃が通路を進むシーンもバージンロードの暗喩と見れることから、教会のシーンは結婚式を模したシーンであると考えます。

南次郎は結局、リョーマに桜乃のために戦えと直接的には教えません。それを諭すのは、手塚と跡部です。

電話ボックスでリョーマが手塚/跡部に電話を掛けた(何故か掛かってしまった)時、手塚が「一番苦しい時、お前ならリターンはどこに打つ?」と問うのは、そして跡部が「逃げ回って掴んだ栄光なんざ、俺様にとっちゃ無価値」と説くのは、端的に言えば桜乃を守るための消極的選択を回避し、自分の武器であるテニスを大切な人を守るための手段としろという助言です。

最初に桜乃とリョーマがマフィアに追われた時、その場にいた南次郎はリョーマに向かって戦わずに逃げるよう諭しました。この時点での南次郎は家父長制の柱たる父親としてリョーマを教え諭しており、女性である桜乃を守って逃げるべきと考えるのです。

リョーマにとって必要なものとは、父を倒すため自分の強さを追い求めることではなく他者の為に戦うということで、それは南次郎ではなく手塚や跡部にしか教えられないものだったのでしょう。親である南次郎は子のリョーマに「テニスを楽しめ」と言うしかなく、自分の身を挺して他者の為に戦えとは教えられないのだと思います。

南次郎に「テニスを楽しむこと」を教えられ、手塚や跡部に「組織や他者の為に戦うこと」を教えられたとき、リョーマは真の王子様として「新テニスの王子様」の物語へと進んでいくのです。

 

父や師匠からの力の継承、同世代のライバルとの相互的な交わりの二点があって強くなる主人公、というのは少年漫画の王道と言えるでしょう*1

この映画は、越前リョーマ=テニスの王子様が、最強のテニスプレイヤーである父、青学やU-17を率いる存在としての手塚や跡部といった「王」の子から独り立ちし、桜乃を守る一人のテニスプレイヤーとなる物語のようにも思えます。

「ララランド」のアンチテーゼとしての「リョーマ!」

本作は宝塚っぽい*2、ジャニーズっぽい、千と千尋っぽい、テニミュっぽい、等色々言われていますが、個人的には「ララランド」だと思いました。

それも「ララランド」のオマージュとしてではなく、「ララランド」のアンチテーゼとして本作が構成されているように感じるのです。

「ララランド」は言わずと知れたミュージカル映画の名作で、LAで出会い恋に落ちたセブとミアの1年を四季に沿って追ったラブストーリーです。

女優を目指すミアはセブに背中を押され、オーディションを受け続けますが、ジャズピアニストを志すセブとはすれ違いと衝突を繰り返し、やがてミアは自らの夢を叶えるもののセブとは正反対の家庭的な男性と結ばれます。

リョーマ!」の劇中においてはその「ララランド」を意識したであろう描写が繰り返されます。まず大人数の賑やかな群舞からはじまってラストのメドレーで終わる全体の構成は共通していますし、「リョーマ!」の冒頭では"Hollywood"と記された看板のカットが入るので作品の舞台も共通しています。

何より「リョーマ!」が「ララランド」と類似しているシーンは、リョーマと桜乃が夜の教会で歌い、手を繋いで踊りながら想像上の宇宙へと浮かび上がるシーンだと思います。ここでは夜のプラネタリウムで踊りながらセブとミアが宇宙空間へと浮かぶ「ララランド」の描写の影響を明確に受けていると言えるでしょう。

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ただ、作品自体の根本的なメッセージ自体は「リョーマ!」と「ララランド」の二者では決定的に異なっていると感じます。

「ララランド」で描かれるラストは、セブとミアがそれぞれの夢を追った結果、2人は別れることとなり、偶然再会した2人が「もしあの時恋人を選んでいたら」という空想で閉じる物語です。

それに対して「リョーマ!」はテニスという夢と桜乃という想い人が等価であり、それを追うことは両立し得るものであることを描いているからです。

リョーマ!」においては夢(テニス)と愛する人(恋人や家族)は互いに相反するものではなく、テニスの強さを追い求めることこそが愛するものを守ることであり、その逆も成立するものであるというメッセージを語っているように感じます。

無印での『テニスの王子様』が語っていた究極のメッセージは「テニスを楽しむことこそが善」でしたが、無印と新テニを繋ぐ本作が語っているのは「他者の為に戦うことの重要性」であり、テニスという自分の夢と桜乃の双方を守ることがリョーマの使命として描かれているのだと思います。

世界を敵に回しても 守るべきもの全てが
俺をまだ強く 強くさせるから
時の異邦人だとしても その声援があるなら
世界をまるごと 変えてしまえ
キミと未来変えよう どこまでも

本作の主題歌である《世界を敵に回しても》のサビ部分は、「守るべきもの」(桜乃)こそがテニスの強さの根源であることを歌っているのです。

テニプリ世界の王子様/お姫様観

テニスの王子様」という作品が、なるべく偏見を排除し多様性を重視した作品であることに異論はありませんし、そういうところがテニプリっていいなポイントだと思うのですが、ジェンダー的に新しい感覚の作品かと問われれば決してそうではないと思います。

リョーマ!」の作中でヒロインの桜乃は常にヒーローのリョーマ*3に守られるお姫様として描かれていますし、かつては男をしのぐ強さを誇り、「俺」という一人称を用いたエメラルドも未来の改変後は女性らしいドレスを身に纏い、化粧品のCMに出演します。南次郎の妻である倫子も夫の仕事のために車を運転したり主婦として台所に立ったりと、夫を支える妻として描かれます。

私はこれを旧時代的な王子様―お姫様や父―娘、夫―妻を描いたものとして批判的には取りません。むしろ保守的なジェンダー規範が批判されがちな現代社会において、女の子はお姫様でいてもいいという夢を与えているのだと捉えています。

そもそもテニプリの主なファン層って海堂のブーメランスネイクや手塚ゾーンを必死に真似した男子中学生や、個人サイトに跡部の取り巻きにいじめられる夢小説をアップしてた女子中学生だったのではないでしょうか。

テニスの王子様」は、王子様に憧れる男の子とお姫様に憧れる女の子に寄り添ってくれるからこそ多くのファンを惹きつけている気がします。

本作の監督は、舞台挨拶で「足手まといヒロイン」を描きたくないと発言しています。それにもかかわらず、桜乃は終始「ふええ……」と言いながらリョーマの足を引っ張っており、見てるこっちが「えええ……」となります。

桜乃もそれを自覚していて、教会のシーンでは自虐的に「私やっぱり足手まとい、そうだよね」とリョーマに問いかけますが、リョーマはそれを否定し、今起こっていることの責任が自分にあると話します。

この「王子様に守ってもらえるお姫様像」はある意味夢小説的とも言えるもので、逆に言えばリョーマはお姫様を守ることによってはじめて「王子様」になれるのです。

「まだ誰も通っていない道はないか、許斐剛です」でおなじみ許斐先生が本作で試みた演出、新しく作った物語はどれも斬新ですが、この「守ることで力を得る王子様と守られるお姫様」の構図だけは万人が通ってきたあまりにも使い古された構図です。

なぜ令和の時代にあえて旧時代的な守られるヒロインを描いたのか、それは観客が桜乃というお姫様に簡単に感情移入できるようにという配慮なのだと思います。

守る/守られるという関係は応援される/応援するという関係に置き換えることも可能と言えるでしょう。テニプリという作品は元々キャラクターとファンの境界がかなり曖昧なのですが、映画冒頭の《Dear Prince〜テニスの王子様達へ〜》は本当によくできた歌詞で、王子様、お姫様、テニプリファン、作者、どの立場からどの立場に向けても成立する応援歌になっていると思います。

この映画は、「王子様へ純情な愛を向け、王子様に守られるお姫様」という「推しとファンの現実では不可能な理想的相互関係」を描いているために、キャラクターと鑑賞者の間に「応援」と「庇護」の疑似的関係が生じ、映画館の座席に座っているだけでなにかすごいことを応援している気になってとても感動してしまうのです。目の前で起こっている出来事はスクリーンの中の物語のはずなのに、どこか他人事ではない気がする、自分の「応援」が物語に介在して、その「応援」への返答としてなにかきらきらしたものを与えてもらっている気がする、少なくとも私はそう思いました。

 

余談 柳生比呂士とは何だったのか

先日、柳生役の津田さんも登壇された許斐先生のティーチングイベントに行ってきたのですが、《世界を敵に回しても》の柳生はただ歌唱力だけであのソロパートに抜擢されたらしいです。

でもたぶん許斐先生もある程度は笑いを狙って柳生を起用したのでしょう。柳生が重要なソロパートを担ったのは、テニミュのKENNさん演じる裕太が《あいつこそはテニスの王子様》で一番声量が必要なソロを歌ったり、菊池さん演じる忍足がドリライ2014《Do Your Best》で(リョーマを除く)ラストのソロを歌ったのと同じ種類の動揺を誘う面白さな気がします。

裕太は氷帝と青学の試合を見ていたただの部外者で、忍足も主人公とはまったく関係なく部長でもなく、今回の柳生も本編に一切絡まない他校の他人ですが、突然やってきた部外者が圧倒的な歌唱力とビブラートでその場の混沌を鎮圧して帰っていくのがテニプリ新喜劇的なお決まりになりつつあるというか、もはやテニプリという文化の中で「部外者のビブラート」が面白くなってしまっているというか、そういうところはあるんでしょうね。

*1:テニスを楽しむこと(天衣無縫)も他者の為に戦うことも結局のところ「愛」という一言に集約されるので、少年漫画は少年漫画でもそこが「テニスの王子様」らしさだと感じます

*2:ちょうど同時期に星組柳生忍法帖」の公演がはじまり、Twitter検索「柳生」のサジェストに「柳生忍法帖」と「柳生 エトワール」が並んだのには笑ったし、エトワールが星組の話ではなく比呂士の話だったのには爆笑しました

*3:舞台挨拶で許斐先生が「リョーマは正義のヒーロー」と言っているのを聞いて、許斐先生の悪人としてのリョーマ観はやっぱり連載が長くなるにつれて変わっていったのだと思ったし、本作でもリョーマが斜に構えず悪と戦っていて新解釈を感じました

ミュージカル『ジェイミー』

アンジュルムのめいめいこと田村芽実ちゃんの歌声を聴きに、ミュージカル『ジェイミー』を観劇してきた。

めいめいのことはずっと好きだったがアンジュ卒業後ミュージカル女優としてデビューしてからはなかなか現場に行く機会がなく、たぶん生でめいめいの歌を聴いたのは次々続々のリリイベ以来5年ぶりくらいだったと思う。

正直、チケットを取った時は本当にめいめいの歌を聴くことだけが目的の9割くらいだった。

『ジェイミー』は公式の謳い文句でも「親子の普遍的な愛を描いたミュージカル」を称しているのだが、私は小説でも映画でも舞台でも家族愛を主題にした作品が全く刺さらないのでストーリーはまあ別にどうでもいいかなーと思っていた。

しかし実際に観劇してみるとこの作品のテーマは「親子の普遍的な愛」というよりむしろ「親と子はあくまで他人」ということであったように思う。

謳い文句に反して親子愛を理想化しないストーリーだったので、ご都合主義な親子愛に対する反感は全く抱かなかったし物語にかなり共感できた。

以下は公式サイトから引用した本作のあらすじ。

 

主人公は16歳の高校生ジェイミー・ニュー。彼には一つの夢があった。

それはドラァグクイーンになること。そして高校のプロムに本来の“自分らしい”服装で参加すること。母親から真っ赤なヒールをプレゼントされたことをきっかけに夢に向かって強く突き進む思いを抱いたジェイミーだが、学校や周囲の保護者たちは猛反対。ジェイミーの夢を理解できない父との確執や周囲からの差別など、多くの困難を乗り越えながら、自分らしさを貫くジェイミーの姿に勇気と感動、そして幸せをもらえる、最高にハッピーなミュージカル!

 

あらすじではジェイミーが父との確執を乗り越えたと記されているが、実はジェイミーは自らの女装を「気持ち悪い」と否定した父親とは最後まで和解しない。

それでもジェイミーの母や、めいめいが演じたジェイミーの親友プリティは彼の生き方を肯定し、やがてジェイミーは父と決別して自分らしさを獲得していく。

本来自分の存在を全面的に肯定してくれるはずの父親が自分を受け入れてくれないというショックは大きい。ジェイミーも一度は父親に否定された悲しみから自暴自棄な行動に走るが、プリティや元伝説のドラァグ・クイーンであるヒューゴといった理解者を得ることで高校のプロムに自分らしい姿で参加する夢を叶える。

マイノリティが社会の全ての人に受け入れられることは人の良心を過信した夢物語であり、時には身近な人にさえ拒絶され得るという現実を容赦なく描いた本作だが、同時に自分の望みを口にすれば理解してくれる人も必ずいるのだということも伝えている。

これは性的マイノリティの人々に限らず多数派に属する人々にも通ずる話である。自分の個性に無理解な人とは無理に関わらず、自分を受け入れてくれる人と信頼関係を築いていくのがこれからの多様性のあり方だというメッセージを感じた。

 

物語の終盤、秀才で地味な格好をしたイスラム教徒であるプリティは、狭量な価値観でプリティやジェイミーを迫害しようとした男子生徒のディーンが井の中の蛙であることを指摘し、言い負かされたディーンは一人プロムの会場に入ることができず取り残される。

プリティとディーンもジェイミーと父親と同様に最後まで和解せず、プリティはディーンを突き放すことで自分の誇りを守るのだが、意外なことにジェイミーは自分を「気持ち悪い」と罵ったディーンを許し、「一緒に踊ってあげても良い」と声を掛ける。

最初はジェイミーがディーンを突然に許した理由がわからなかったのだが、これはきっとジェイミーが父親に抑圧された存在としてのディーンを自分と重ねているからなのだと思う。

ディーンの親はジェイミーがドラァグ・クイーンの姿でプロムに出席することに対して学校に苦情を入れるようなモンスターペアレントであり、ディーンは狭い価値観に支配された家庭で育ち、学校という狭い環境で少数派を迫害しようとする可哀想な男の子なのである。

ジェイミーがディーンを許した時、跪いて手を差し伸べるのは一見救済された側に見えるディーンで、その差し出された手を引っ張り会場へエスコートするのは一見女性側に見えるジェイミーだった。

つまりここでのシーンは、ディーンはジェイミーに一方的に救われたのではなく、ジェイミーの許しを受け入れることによって父親に呪いを掛けられたジェイミーを解放したことを示唆している。また、ジェイミーはディーンをエスコートすることで、女性そのものになりたいのではなく、女の子の格好をしたい男の子という自分のアイデンティティを表現しているのである。

ラストシーンの手を差し伸べる/手を引っ張るという行為の逆転は、物事の表面的な見方を転換させる演出であり、ここに本作の重要なメッセージが込められている。

このシーンがあったとしても物語の中にわだかまりはたくさん残されているし、ラストで笑顔のジェイミーやジェイミーの父親やディーンやプリティが手を取り合って仲良く皆で踊るということもない。

しかし全てが円満に行かなくとも、ジェイミーとディーンがプロムに向かうラストシーンは確かな希望に満ちたラストシーンだった。

 

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その希望に満ちたラストシーンの陰には、ジェイミーの美しさを肯定したプリティの存在がある。

リンク先の動画は、ジェイミーがプリティの部屋を訪れた際にプリティがソロで歌う曲である(動画内ではメインキャスト4人で歌っているが)。

ムスリマであるプリティは、自分は宗教の教えに従って嫌々ヒジャブを被っているのではなく、ヒジャブが好きだから被っているのだとジェイミーに語る。

ヒジャブイスラムの教えでは女性の美しさを男性の視線から隠し、貞操を守るものとされている。性的魅力を隠す服装も一つの清廉な美しさであり、自分らしさであると知っているプリティは、自らを誇示し、他者を威圧する鎧としてドレスを身に纏うジェイミーに、《It means beautiful》の歌唱を通してプロムでドラァグ・クイーンの恰好をしなくてもジェイミーは十分美しいと伝えているのである。

ジェイミーが男性装でもドラァグ・クイーンの格好でもなく、周囲の女子生徒の服装とも調和するフェミニンなパンツスタイルのドレスでプロムに現れたのは、プリティがミミミー(ジェイミーのドラァグ・クイーンとしての名前)だけでなくジェイミーの存在を肯定し、背中を押したからだろう。

「自分らしさ」を表現する上で、肯定しがたい自分を鎧で覆い隠すことと自分そのものを肯定した上で好きな恰好をすることは大きく違う。

ディーンを除くジェイミーのクラスメイト達はミミミーを見た翌日、あたかもジェイミーの個性を認めたかのように態度を一変させるが、彼らはミミミーという鎧の力に圧倒されたにすぎず、ジェイミー自身の内面を真に理解し、励ましたのは恐らくプリティだけなのである。

めいめいはジェイミーの親友として本質を見抜く聡明さ、芯の強さ、優しさを持ったプリティをしっかりと演じきったし、歌声にもそうした彼女の美徳が表れている。

作品全体を通して、ミュージカル女優としてのめいめいの表現力に感動する場面が多々あった。

 

今回はめいめいの歌が聴けたら席はどこでもいいと思ってB席を取ったら思った以上に舞台に死角が多く、場面の雰囲気や人物の感情の機微がほとんど感じられなかったのが惜しかった。ついでに早口で捲し立てるような台詞も多かったので会話もあまり聞き取れず、視覚からも聴覚からも相当情報がすり抜けてしまった気がする。

いくらS席の半額とはいえチケ代はケチるもんじゃないなと反省した。

歌と物語はすごく良かったけど誰のダンスやお芝居がどうとか全然記憶にない。でもドット柄のスーツ姿で踊るディーンはめちゃめちゃかっこよかったので一生懸命オペラで追った。ディーンを演じた佐藤さんはテニミュやリアフェの時からクソ怠そうにテキパキ踊るのが上手すぎるのでまた不良っぽい役をやってほしい。

めいめいのダンスは見切れててよくわからなかったのでもっとちゃんと観たかった。めいめいの次の舞台もまた同じ会場なので次は奮発してS席を取りたい(絶対梅芸のほうが視界も音響もアクセスもいいんだから梅芸でやってほしかったよね)。

演劇女子部とテニミュがきっかけでグランドミュージカルを観るようになったのでS席の値段に毎回ビビり散らすけど、卒業したアイドルや若俳が大きい舞台に出てるのすごいなーと思うし久しぶりにめいめいが見れて嬉しかった。

 

カテコの後は写真撮影可だったので撮らせてもらった。めいめいが笑顔でピースしている時にシャッターを切れました。

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エヴァを一気見した感想

エヴァシリーズが完結した。エヴァンゲリオンサブカルやおたく文化に触れている人間なら観ていて当たり前の基礎教養にあたるものなのになんとなく敷居が高くて観てこなかったのだが、先日完結作のシン・エヴァンゲリオンがアマプラで配信開始され、いい機会なのでTV版からシンエヴァまで一気に観た。

基礎教養というのは別にエヴァのマニアックな知識や解釈を人と語り合いたいと思って言ったのではない。ただ、この世のアニメや漫画にはエヴァの影響を受けたものが多すぎるし、エヴァを知ってるのと知らないのとでは受け取れるものが違うんだろうなとエヴァを知らないなりに感じていた。そういう意味でサブカルにおけるエヴァハイカルチャーにおける源氏物語シェイクスピア的な作品である。

実際エヴァを観ていると、今まで自分が観たり読んだりしてきたあの作品のこの部分ってエヴァのオマージュだったんだなと気づく場面がたくさんあって面白かった。たとえば『3月のライオン』の香子の零に対する態度はたぶんエヴァのアスカを意識して描かれたものだし、PSYCHO-PASSシリーズの残酷な場面で場違いなクラシック音楽が流れる演出もたぶんエヴァの影響を受けているのだと思う。

エヴァ自身も昔の特撮やキリスト教など色々な要素の影響を受けてつくられたものなので(私はキリスト教の知識は多少あっても特撮の知識は全くないのでどこがどう特撮なのかは他人の解説を読まないとわからないが)、エヴァを観る中で他の文化との繋がりを見出して楽しむ部分がかなりあった。

 

肝心の作品自体の話をすると、散々難解と言われているので覚悟はしていたが予想以上によくわからない作品だった。壮大な音楽をバックにエヴァが大暴れしていたりオペレーターが大慌てで難しそうなことを叫んでいたり美少女や美少年が綺麗な声で意味深なことを言っていたりすると意味もわからずいいな〜と思うので楽しく一気見したが、きちんと作品の意味を理解して観ていたわけではない。

一般に難解と言われているアニメ作品でも、幾原作品やジブリ作品はネット上に転がっている解説や元ネタを読めばかなりわかるようになるが、エヴァは解説すら全然理解できないので難解さが頭ひとつ抜けている。

まず作中の用語が意味不明なのでそこから勉強するか……と思ったがわからない用語を説明する用語が意味不明だったのですぐに諦めた。

ゲンドウは過去作のシンジと違い「全てが一つになった世界」を望み、実行し「ゴルゴダオブジェクト」に存在していた「エヴァンゲリオンイマジナリー」に到達。「エヴァンゲリオンイマジナリー」は「ロンギヌスの槍」と「カシウスの槍」を取り込んだことで現実世界へと現出。虚構と現実を等しくするために、生命のコモディティ化エヴァインフィニティー津波と光の十字架が地球を覆う。

以上はpixiv百科事典の「アディショナルインパクト」の項目を一部引用したものだ。

一目見た瞬間に百科事典の説明としておしまいすぎると思ったが、書き手の文章力や私の読解力以前にそもそもの話が複雑すぎてこうとしか書けないしこうとしか読めないのだと思う。

もちろんここに出てきた用語を一個一個理解すればアディショナルインパクトの意味もある程度理解できるのだと思うが、そこまでする気力を失わせるほどにわからないことが多い。

以前「謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなってきてる」という庵野監督の発言が話題になった時、私は庵野監督の代表作であるエヴァを観たことがないにもかかわらず1から10までわかりやすく明示された物語を次々と消化してしまう風潮を冷笑気味に見ていた。だがエヴァを観た後、これほど難解な作品を理解して自分なりの解釈を打ち立てる気力や体力は自分も持っていないのだということに気づいて悲しくなった。確かにここまで謎に包まれていたら喜べない。

 

私がエヴァを観てて好きだと思ったシーンは、TV版の中盤でシンジとアスカがラブコメしてたり(エヴァは哲学的な鬱アニメという先入観があったのでアスカがシンジに「エッチチカンヘンタイ!」って叫ぶシーンはかなり予想外だった)、破でシンジがレイにお味噌汁を飲ませてあげたり、Qでシンジとカヲルがピアノを連弾してたりする普通の少年少女の生活と感情を描いたシーンだった。

エヴァの哲学的なメッセージよりも、暗く絶望的な環境の中でシンジが周囲の人たちと交流して様々な感情を獲得していく物語の方が興味を持てたし、何より綺麗だと感じた。

それで途中までボーイミーツガール、あるいはボーイミーツボーイの物語としてエヴァを楽しんでいたのだが、新劇場版の後半になるとレイはシンジの母親であるユイと、カヲルはシンジの父親であるゲンドウと表裏一体の存在としてシンジに接していることが見えてくるので単純な青春物語的な楽しみ方をしてしまっていた分じわじわと気持ち悪さに襲われた。

レイやカヲルがシンジに向けた愛情は歪んだ母性と父性だったと気づいた時、言いようのない不気味さを感じる。

こういうのがエヴァファンの言う「エヴァ」っぽさなのかもしれない。アニメで描かれた感情を素直に受け取ってしまうと後々裏切られるという一種の悪趣味さが。

 

エヴァはあまりにも有名な作品なので、いかにもオタクが喜びそうな美少女として設定されたキャラクターの表層部分だけ視聴前から知った気になってしまっていた。どうせアスカは紋切り型のツンデレの元祖でレイも紋切り型のクーデレの元祖なんだろうという先入観があった。

しかしきちんと最初から最後まで通してアニメを観ると、彼女たちが何に傷つき、何に執着し、何に希望を見出すのかということがかなり丁寧に描写されているのでリアルな人間像として魅力的に感じる。

そしてこの作品では自己と他者を隔てる境界であるATフィールドや、人と人との境界を取り払い人類をひとつの単体へと進化させる人類補完計画が重要なキーワードとして出てきており、自己と他者の境界というテーマが至る所で提示されている。

エヴァンゲリオンという作品は作中で起きている出来事に関する描写は難解だが、人が自分の欲望を他者に押し付けたり、親との愛着を形成できなかった子供が思春期や大人になっても他者との関係を上手く築けなかったりという人と人との歪な関係に関しては比較的わかりやすく描写しているのでキャラクターの内面や関係性に魅力を見出しやすい。

キャラの魅力に関してもっと俗物的なことを言ってしまえばたぶん男オタクはシンジが女の子と同居してラッキースケベを連発するシーンに最初は目がいくと思うし女オタクはカヲルがミステリアスなことを言いながらかっこよく座っているシーンに目がいくと思う。

哲学的なメッセージの全体像が全然わからなくてもエッチな美少女やエッチな美少年の外面でオタクの心を捉えて、あれ…?自分も思春期の少年少女が抱えたこの鬱屈した内面が少しわかるかもしれない、と思わせ、よくわからないまま最後まで夢中で観させてしまうエヴァはズルいと思ったし、最初はみんな美少女と美少年の悲しい運命に惹かれてエヴァを好きになったのだろう。

そこから深く作品世界を解釈していく楽しみもあれば、描かれたキャラクターの感情をそのまま受け入れる楽しみもある。

 

私はカヲルくんが死を選び、シンジとレイとアスカが荒廃した大地を歩いていくエヴァQのラストシーンが意味もわからずずっと好きだと思います。

なんか、石田彰の声が綺麗だし絵もそれっぽくてかっこいいので……