激ダサDANCEで凍らせて

ハロプロとテニミュとその他雑記。

ミュージカル『ジェイミー』

アンジュルムのめいめいこと田村芽実ちゃんの歌声を聴きに、ミュージカル『ジェイミー』を観劇してきた。

めいめいのことはずっと好きだったがアンジュ卒業後ミュージカル女優としてデビューしてからはなかなか現場に行く機会がなく、たぶん生でめいめいの歌を聴いたのは次々続々のリリイベ以来5年ぶりくらいだったと思う。

正直、チケットを取った時は本当にめいめいの歌を聴くことだけが目的の9割くらいだった。

『ジェイミー』は公式の謳い文句でも「親子の普遍的な愛を描いたミュージカル」を称しているのだが、私は小説でも映画でも舞台でも家族愛を主題にした作品が全く刺さらないのでストーリーはまあ別にどうでもいいかなーと思っていた。

しかし実際に観劇してみるとこの作品のテーマは「親子の普遍的な愛」というよりむしろ「親と子はあくまで他人」ということであったように思う。

謳い文句に反して親子愛を理想化しないストーリーだったので、ご都合主義な親子愛に対する反感は全く抱かなかったし物語にかなり共感できた。

以下は公式サイトから引用した本作のあらすじ。

 

主人公は16歳の高校生ジェイミー・ニュー。彼には一つの夢があった。

それはドラァグクイーンになること。そして高校のプロムに本来の“自分らしい”服装で参加すること。母親から真っ赤なヒールをプレゼントされたことをきっかけに夢に向かって強く突き進む思いを抱いたジェイミーだが、学校や周囲の保護者たちは猛反対。ジェイミーの夢を理解できない父との確執や周囲からの差別など、多くの困難を乗り越えながら、自分らしさを貫くジェイミーの姿に勇気と感動、そして幸せをもらえる、最高にハッピーなミュージカル!

 

あらすじではジェイミーが父との確執を乗り越えたと記されているが、実はジェイミーは自らの女装を「気持ち悪い」と否定した父親とは最後まで和解しない。

それでもジェイミーの母や、めいめいが演じたジェイミーの親友プリティは彼の生き方を肯定し、やがてジェイミーは父と決別して自分らしさを獲得していく。

本来自分の存在を全面的に肯定してくれるはずの父親が自分を受け入れてくれないというショックは大きい。ジェイミーも一度は父親に否定された悲しみから自暴自棄な行動に走るが、プリティや元伝説のドラァグ・クイーンであるヒューゴといった理解者を得ることで高校のプロムに自分らしい姿で参加する夢を叶える。

マイノリティが社会の全ての人に受け入れられることは人の良心を過信した夢物語であり、時には身近な人にさえ拒絶され得るという現実を容赦なく描いた本作だが、同時に自分の望みを口にすれば理解してくれる人も必ずいるのだということも伝えている。

これは性的マイノリティの人々に限らず多数派に属する人々にも通ずる話である。自分の個性に無理解な人とは無理に関わらず、自分を受け入れてくれる人と信頼関係を築いていくのがこれからの多様性のあり方だというメッセージを感じた。

 

物語の終盤、秀才で地味な格好をしたイスラム教徒であるプリティは、狭量な価値観でプリティやジェイミーを迫害しようとした男子生徒のディーンが井の中の蛙であることを指摘し、言い負かされたディーンは一人プロムの会場に入ることができず取り残される。

プリティとディーンもジェイミーと父親と同様に最後まで和解せず、プリティはディーンを突き放すことで自分の誇りを守るのだが、意外なことにジェイミーは自分を「気持ち悪い」と罵ったディーンを許し、「一緒に踊ってあげても良い」と声を掛ける。

最初はジェイミーがディーンを突然に許した理由がわからなかったのだが、これはきっとジェイミーが父親に抑圧された存在としてのディーンを自分と重ねているからなのだと思う。

ディーンの親はジェイミーがドラァグ・クイーンの姿でプロムに出席することに対して学校に苦情を入れるようなモンスターペアレントであり、ディーンは狭い価値観に支配された家庭で育ち、学校という狭い環境で少数派を迫害しようとする可哀想な男の子なのである。

ジェイミーがディーンを許した時、跪いて手を差し伸べるのは一見救済された側に見えるディーンで、その差し出された手を引っ張り会場へエスコートするのは一見女性側に見えるジェイミーだった。

つまりここでのシーンは、ディーンはジェイミーに一方的に救われたのではなく、ジェイミーの許しを受け入れることによって父親に呪いを掛けられたジェイミーを解放したことを示唆している。また、ジェイミーはディーンをエスコートすることで、女性そのものになりたいのではなく、女の子の格好をしたい男の子という自分のアイデンティティを表現しているのである。

ラストシーンの手を差し伸べる/手を引っ張るという行為の逆転は、物事の表面的な見方を転換させる演出であり、ここに本作の重要なメッセージが込められている。

このシーンがあったとしても物語の中にわだかまりはたくさん残されているし、ラストで笑顔のジェイミーやジェイミーの父親やディーンやプリティが手を取り合って仲良く皆で踊るということもない。

しかし全てが円満に行かなくとも、ジェイミーとディーンがプロムに向かうラストシーンは確かな希望に満ちたラストシーンだった。

 

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その希望に満ちたラストシーンの陰には、ジェイミーの美しさを肯定したプリティの存在がある。

リンク先の動画は、ジェイミーがプリティの部屋を訪れた際にプリティがソロで歌う曲である(動画内ではメインキャスト4人で歌っているが)。

ムスリマであるプリティは、自分は宗教の教えに従って嫌々ヒジャブを被っているのではなく、ヒジャブが好きだから被っているのだとジェイミーに語る。

ヒジャブイスラムの教えでは女性の美しさを男性の視線から隠し、貞操を守るものとされている。性的魅力を隠す服装も一つの清廉な美しさであり、自分らしさであると知っているプリティは、自らを誇示し、他者を威圧する鎧としてドレスを身に纏うジェイミーに、《It means beautiful》の歌唱を通してプロムでドラァグ・クイーンの恰好をしなくてもジェイミーは十分美しいと伝えているのである。

ジェイミーが男性装でもドラァグ・クイーンの格好でもなく、周囲の女子生徒の服装とも調和するフェミニンなパンツスタイルのドレスでプロムに現れたのは、プリティがミミミー(ジェイミーのドラァグ・クイーンとしての名前)だけでなくジェイミーの存在を肯定し、背中を押したからだろう。

「自分らしさ」を表現する上で、肯定しがたい自分を鎧で覆い隠すことと自分そのものを肯定した上で好きな恰好をすることは大きく違う。

ディーンを除くジェイミーのクラスメイト達はミミミーを見た翌日、あたかもジェイミーの個性を認めたかのように態度を一変させるが、彼らはミミミーという鎧の力に圧倒されたにすぎず、ジェイミー自身の内面を真に理解し、励ましたのは恐らくプリティだけなのである。

めいめいはジェイミーの親友として本質を見抜く聡明さ、芯の強さ、優しさを持ったプリティをしっかりと演じきったし、歌声にもそうした彼女の美徳が表れている。

作品全体を通して、ミュージカル女優としてのめいめいの表現力に感動する場面が多々あった。

 

今回はめいめいの歌が聴けたら席はどこでもいいと思ってB席を取ったら思った以上に舞台に死角が多く、場面の雰囲気や人物の感情の機微がほとんど感じられなかったのが惜しかった。ついでに早口で捲し立てるような台詞も多かったので会話もあまり聞き取れず、視覚からも聴覚からも相当情報がすり抜けてしまった気がする。

いくらS席の半額とはいえチケ代はケチるもんじゃないなと反省した。

歌と物語はすごく良かったけど誰のダンスやお芝居がどうとか全然記憶にない。でもドット柄のスーツ姿で踊るディーンはめちゃめちゃかっこよかったので一生懸命オペラで追った。ディーンを演じた佐藤さんはテニミュやリアフェの時からクソ怠そうにテキパキ踊るのが上手すぎるのでまた不良っぽい役をやってほしい。

めいめいのダンスは見切れててよくわからなかったのでもっとちゃんと観たかった。めいめいの次の舞台もまた同じ会場なので次は奮発してS席を取りたい(絶対梅芸のほうが視界も音響もアクセスもいいんだから梅芸でやってほしかったよね)。

演劇女子部とテニミュがきっかけでグランドミュージカルを観るようになったのでS席の値段に毎回ビビり散らすけど、卒業したアイドルや若俳が大きい舞台に出てるのすごいなーと思うし久しぶりにめいめいが見れて嬉しかった。

 

カテコの後は写真撮影可だったので撮らせてもらった。めいめいが笑顔でピースしている時にシャッターを切れました。

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