激ダサDANCEで凍らせて

ハロプロとテニミュとその他雑記。

リョーマ! The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様

テニスの王子様の新作映画、「リョーマ!」を何回か観てきたので考えた事や面白かったことを書きます。

 

目次

大人になるということ

今回の映画は世界観のぶっ飛び具合もミュージカル的な楽しさもキャラクターの魅力もすごく完成度が高かったのですが、テニプリ哲学の永遠のテーマである「テニスを楽しむことと自己犠牲はどちらが真の強さであるのか」というテーマに関しても掘り下げがあって面白かったです。

旧テニではテニスを楽しむ(天衣無縫になる)リョーマが幸村に勝つことで作品のメッセージが簡潔に示されたのですが、旧テニと新テニの間を埋める本作ではそこに疑問を投げかける構成になっています。

作中ではテニスの強さの秘訣を問われた南次郎が「大人になったらわかる」と答える箇所が二か所あります。一回目は桜乃誘拐前の中学生のリョーマに対して、二回目は全米オープン後の幼いリョーガ・リョーマ兄弟に対してです。

ここで南次郎が言いたいことは、大切な人を守ること(自己犠牲)もテニスを楽しむこと同様に重要な強さの源であり、それはテニスを楽しむこととは対照的に大人にならなくてはわからないことであるということです。

類似した台詞が繰返されているのは、「大人」となり強さの根源を理解した中学生のリョーマがとまだ幼い兄弟の対比を描いているためですが、その中学生のリョーマが「大人」になった瞬間というのがやはり教会で桜乃と結ばれ、大切な人を守らねばならないという使命を自覚した時だと思います。

「結ばれた」という言い方には多少語弊がありますが、二人が髪を結うリボンと猫の缶バッジを交換したのは指輪交換の暗喩で、教会の祭壇側に座るリョーマに向かって桜乃が通路を進むシーンもバージンロードの暗喩と見れることから、教会のシーンは結婚式を模したシーンであると考えます。

南次郎は結局、リョーマに桜乃のために戦えと直接的には教えません。それを諭すのは、手塚と跡部です。

電話ボックスでリョーマが手塚/跡部に電話を掛けた(何故か掛かってしまった)時、手塚が「一番苦しい時、お前ならリターンはどこに打つ?」と問うのは、そして跡部が「逃げ回って掴んだ栄光なんざ、俺様にとっちゃ無価値」と説くのは、端的に言えば桜乃を守るための消極的選択を回避し、自分の武器であるテニスを大切な人を守るための手段としろという助言です。

最初に桜乃とリョーマがマフィアに追われた時、その場にいた南次郎はリョーマに向かって戦わずに逃げるよう諭しました。この時点での南次郎は家父長制の柱たる父親としてリョーマを教え諭しており、女性である桜乃を守って逃げるべきと考えるのです。

リョーマにとって必要なものとは、父を倒すため自分の強さを追い求めることではなく他者の為に戦うということで、それは南次郎ではなく手塚や跡部にしか教えられないものだったのでしょう。親である南次郎は子のリョーマに「テニスを楽しめ」と言うしかなく、自分の身を挺して他者の為に戦えとは教えられないのだと思います。

南次郎に「テニスを楽しむこと」を教えられ、手塚や跡部に「組織や他者の為に戦うこと」を教えられたとき、リョーマは真の王子様として「新テニスの王子様」の物語へと進んでいくのです。

 

父や師匠からの力の継承、同世代のライバルとの相互的な交わりの二点があって強くなる主人公、というのは少年漫画の王道と言えるでしょう*1

この映画は、越前リョーマ=テニスの王子様が、最強のテニスプレイヤーである父、青学やU-17を率いる存在としての手塚や跡部といった「王」の子から独り立ちし、桜乃を守る一人のテニスプレイヤーとなる物語のようにも思えます。

「ララランド」のアンチテーゼとしての「リョーマ!」

本作は宝塚っぽい*2、ジャニーズっぽい、千と千尋っぽい、テニミュっぽい、等色々言われていますが、個人的には「ララランド」だと思いました。

それも「ララランド」のオマージュとしてではなく、「ララランド」のアンチテーゼとして本作が構成されているように感じるのです。

「ララランド」は言わずと知れたミュージカル映画の名作で、LAで出会い恋に落ちたセブとミアの1年を四季に沿って追ったラブストーリーです。

女優を目指すミアはセブに背中を押され、オーディションを受け続けますが、ジャズピアニストを志すセブとはすれ違いと衝突を繰り返し、やがてミアは自らの夢を叶えるもののセブとは正反対の家庭的な男性と結ばれます。

リョーマ!」の劇中においてはその「ララランド」を意識したであろう描写が繰り返されます。まず大人数の賑やかな群舞からはじまってラストのメドレーで終わる全体の構成は共通していますし、「リョーマ!」の冒頭では"Hollywood"と記された看板のカットが入るので作品の舞台も共通しています。

何より「リョーマ!」が「ララランド」と類似しているシーンは、リョーマと桜乃が夜の教会で歌い、手を繋いで踊りながら想像上の宇宙へと浮かび上がるシーンだと思います。ここでは夜のプラネタリウムで踊りながらセブとミアが宇宙空間へと浮かぶ「ララランド」の描写の影響を明確に受けていると言えるでしょう。

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ただ、作品自体の根本的なメッセージ自体は「リョーマ!」と「ララランド」の二者では決定的に異なっていると感じます。

「ララランド」で描かれるラストは、セブとミアがそれぞれの夢を追った結果、2人は別れることとなり、偶然再会した2人が「もしあの時恋人を選んでいたら」という空想で閉じる物語です。

それに対して「リョーマ!」はテニスという夢と桜乃という想い人が等価であり、それを追うことは両立し得るものであることを描いているからです。

リョーマ!」においては夢(テニス)と愛する人(恋人や家族)は互いに相反するものではなく、テニスの強さを追い求めることこそが愛するものを守ることであり、その逆も成立するものであるというメッセージを語っているように感じます。

無印での『テニスの王子様』が語っていた究極のメッセージは「テニスを楽しむことこそが善」でしたが、無印と新テニを繋ぐ本作が語っているのは「他者の為に戦うことの重要性」であり、テニスという自分の夢と桜乃の双方を守ることがリョーマの使命として描かれているのだと思います。

世界を敵に回しても 守るべきもの全てが
俺をまだ強く 強くさせるから
時の異邦人だとしても その声援があるなら
世界をまるごと 変えてしまえ
キミと未来変えよう どこまでも

本作の主題歌である《世界を敵に回しても》のサビ部分は、「守るべきもの」(桜乃)こそがテニスの強さの根源であることを歌っているのです。

テニプリ世界の王子様/お姫様観

テニスの王子様」という作品が、なるべく偏見を排除し多様性を重視した作品であることに異論はありませんし、そういうところがテニプリっていいなポイントだと思うのですが、ジェンダー的に新しい感覚の作品かと問われれば決してそうではないと思います。

リョーマ!」の作中でヒロインの桜乃は常にヒーローのリョーマ*3に守られるお姫様として描かれていますし、かつては男をしのぐ強さを誇り、「俺」という一人称を用いたエメラルドも未来の改変後は女性らしいドレスを身に纏い、化粧品のCMに出演します。南次郎の妻である倫子も夫の仕事のために車を運転したり主婦として台所に立ったりと、夫を支える妻として描かれます。

私はこれを旧時代的な王子様―お姫様や父―娘、夫―妻を描いたものとして批判的には取りません。むしろ保守的なジェンダー規範が批判されがちな現代社会において、女の子はお姫様でいてもいいという夢を与えているのだと捉えています。

そもそもテニプリの主なファン層って海堂のブーメランスネイクや手塚ゾーンを必死に真似した男子中学生や、個人サイトに跡部の取り巻きにいじめられる夢小説をアップしてた女子中学生だったのではないでしょうか。

テニスの王子様」は、王子様に憧れる男の子とお姫様に憧れる女の子に寄り添ってくれるからこそ多くのファンを惹きつけている気がします。

本作の監督は、舞台挨拶で「足手まといヒロイン」を描きたくないと発言しています。それにもかかわらず、桜乃は終始「ふええ……」と言いながらリョーマの足を引っ張っており、見てるこっちが「えええ……」となります。

桜乃もそれを自覚していて、教会のシーンでは自虐的に「私やっぱり足手まとい、そうだよね」とリョーマに問いかけますが、リョーマはそれを否定し、今起こっていることの責任が自分にあると話します。

この「王子様に守ってもらえるお姫様像」はある意味夢小説的とも言えるもので、逆に言えばリョーマはお姫様を守ることによってはじめて「王子様」になれるのです。

「まだ誰も通っていない道はないか、許斐剛です」でおなじみ許斐先生が本作で試みた演出、新しく作った物語はどれも斬新ですが、この「守ることで力を得る王子様と守られるお姫様」の構図だけは万人が通ってきたあまりにも使い古された構図です。

なぜ令和の時代にあえて旧時代的な守られるヒロインを描いたのか、それは観客が桜乃というお姫様に簡単に感情移入できるようにという配慮なのだと思います。

守る/守られるという関係は応援される/応援するという関係に置き換えることも可能と言えるでしょう。テニプリという作品は元々キャラクターとファンの境界がかなり曖昧なのですが、映画冒頭の《Dear Prince〜テニスの王子様達へ〜》は本当によくできた歌詞で、王子様、お姫様、テニプリファン、作者、どの立場からどの立場に向けても成立する応援歌になっていると思います。

この映画は、「王子様へ純情な愛を向け、王子様に守られるお姫様」という「推しとファンの現実では不可能な理想的相互関係」を描いているために、キャラクターと鑑賞者の間に「応援」と「庇護」の疑似的関係が生じ、映画館の座席に座っているだけでなにかすごいことを応援している気になってとても感動してしまうのです。目の前で起こっている出来事はスクリーンの中の物語のはずなのに、どこか他人事ではない気がする、自分の「応援」が物語に介在して、その「応援」への返答としてなにかきらきらしたものを与えてもらっている気がする、少なくとも私はそう思いました。

 

余談 柳生比呂士とは何だったのか

先日、柳生役の津田さんも登壇された許斐先生のティーチングイベントに行ってきたのですが、《世界を敵に回しても》の柳生はただ歌唱力だけであのソロパートに抜擢されたらしいです。

でもたぶん許斐先生もある程度は笑いを狙って柳生を起用したのでしょう。柳生が重要なソロパートを担ったのは、テニミュのKENNさん演じる裕太が《あいつこそはテニスの王子様》で一番声量が必要なソロを歌ったり、菊池さん演じる忍足がドリライ2014《Do Your Best》で(リョーマを除く)ラストのソロを歌ったのと同じ種類の動揺を誘う面白さな気がします。

裕太は氷帝と青学の試合を見ていたただの部外者で、忍足も主人公とはまったく関係なく部長でもなく、今回の柳生も本編に一切絡まない他校の他人ですが、突然やってきた部外者が圧倒的な歌唱力とビブラートでその場の混沌を鎮圧して帰っていくのがテニプリ新喜劇的なお決まりになりつつあるというか、もはやテニプリという文化の中で「部外者のビブラート」が面白くなってしまっているというか、そういうところはあるんでしょうね。

*1:テニスを楽しむこと(天衣無縫)も他者の為に戦うことも結局のところ「愛」という一言に集約されるので、少年漫画は少年漫画でもそこが「テニスの王子様」らしさだと感じます

*2:ちょうど同時期に星組柳生忍法帖」の公演がはじまり、Twitter検索「柳生」のサジェストに「柳生忍法帖」と「柳生 エトワール」が並んだのには笑ったし、エトワールが星組の話ではなく比呂士の話だったのには爆笑しました

*3:舞台挨拶で許斐先生が「リョーマは正義のヒーロー」と言っているのを聞いて、許斐先生の悪人としてのリョーマ観はやっぱり連載が長くなるにつれて変わっていったのだと思ったし、本作でもリョーマが斜に構えず悪と戦っていて新解釈を感じました