気づいたら男性しか出演していない舞台、あるいは女性しか出演していない舞台ばかり観ている。
別にBLやGLが好きという理由だけでそういう舞台ばかり観ているわけではないと思うし、ナマモノが好きなわけでもない。
ただ、私は昔から「ふつうの」異性愛、つまり恋愛・結婚・出産三点セットのロマンティックラブイデオロギーを描いたハッピーな作品に興味が向かず、同性間の結びつきを扱った作品に猛烈なラブを感じるおたくだった。
同性のみで構成された舞台に清らかさを感じるのは、異性愛にある種の俗っぽさを感じてしまうドルヲタ的な発想かもしれない*1。
高校生の頃、仄暗い感じの百合にハマった。
大学生になって少女趣味な百合から離れてしまったので今の百合文化がどうなっているのかはよくわからないが、当時の女性向け百合作品はサブカル・メンヘラカルチャーと強く結びついていたと思う。
実家の本棚には吉屋信子、皆川博子、嶽本野ばら、桜庭一樹、タカハシマコあたりの作品とか今井キラの画集とかゴスロリバイブルが大量に並んでいて、なんというか、そういう感じの文化が好きだった。私自身はメンヘラを名乗れるほど自尊心が崩壊していなかったし運動部に所属して受験勉強に励むまっとうな高校生活を送っていたが、休日はちゃんとMILKの服を着てアーバンギャルドや大森靖子を嗜んでいた。
そういう感じの文化の中でも宮木あや子の小説が一番好きだった。
宮木さんといえば石原さとみ主演のドラマ「校閲ガール」の原作者として名が通っている方だが、実はお耽美でエグくて少女趣味な小説もたくさん書いている*2。
成人して多少は現実世界で生きるようになってから少女趣味な百合がそこまで刺さらなくなってしまったので当時の記憶があいまいだが、ロリィタファッションや甘いお菓子に彩られた世界を描いているにもかかわらず行間に絶望や諦念が満ちていて文体も冷たい宮木さんの作品が好きだった。
つい最近、生執事のチケットを取るためネルケのサイトを見ていた時に『雨の塔』という文字列を発見した時はびっくりした。
宮木さんの初期作である『雨の塔』の初版が出たのは2007年で、8年も前の作品が突然舞台化されるのは意外だったし、閉ざされた学園の中で4人の女の子が延々とくっついたりはなれたりしてる作品を舞台にするというのもあんまり想像がつかなかった。
びっくりはしたが、おたくという生き物は昔ハマった作品が唐突に新作を供給してくれる状況が大好きなのでしっかり配信を購入して千秋楽公演を観た。
あらすじをざっくり言うと財閥のお嬢様の三島・そのお友達の都岡・過去に女の子と心中未遂を起こした矢咲・母との確執を抱えた小津の4人が親から厄介者扱いされて全寮制の大学に軟禁され、世間から切り離された楽園の中で求めあったり嫉妬したり依存したりみたいな百合物語である。
公演は三島・都岡Ver.と⽮咲・小津Ver.の2パターンがあり、両方観劇することで物語の全容を掴めるという構成になっている。
ミュージカル表記ではなく「少女文學演劇」なのに振り付けや作曲のクレジットが入っていたのでこれはミュージカルなのか?と気になりながら観はじめたのだが、観終わった後でこれはミュージカルじゃなくて「少女文學演劇」だな……と思った。
要所要所で本格的な歌唱とダンスが入るのだが、いずれも観客に向けてパフォーマンスをしている印象が全くない。
そう感じたのは、鳥かごに見立てた舞台の四方を取り囲むように観客席が設置されていたせいでもある。
通常の劇場だと舞台と客席が一対一で向かい合っており、どうしても演者の意識や視線は観客へ向けられるが、今回の舞台構造だと演者の視線は常に内部へと向いている。
私の同性しか出演していない舞台への偏執は冒頭で述べたが、女の子だけの空間が外部と切り離されているようなこの舞台構造はどうしようもなく刺さった。
登場人物4人の中で感情のやりとりが完結していて、歌やダンスが感情を吐露するための手段でしかないのが原作の世界観とマッチしていてすごく好きだと思ったし、語りが自分の内面や限られた人間関係の内部に向いているという構造が、「少女文學演劇」的であると思った。なんとなくだけど「ミュージカル」という響きにはデカい声で劇場中に感情を放出するもの、というイメージがある。
『雨の塔』も「少女」も「文學」も、もっと湿っぽくて内向的な響きがある。
ミュージカルではないので、声色から感情が零れていれば歌は別に上手くなくてもいい。乃木坂の松村さん演じる三島の歌は、割とすごかった。音程もすごいし、何より劇場に響かせるための発声ではない。
でも三島というキャラクターを考えると、これが大正解なのだと思う。
三島は勉強もスポーツも何もできない、ただ可愛いだけのお嬢様である。友人である都岡にピアノを弾いてとねだり、楽しげに歌う三島は、歌が苦手であることを自覚しながらもにこにこと歌う乃木坂工事中でのさゆりんと完全にダブっている*3。
そして三島は松村・白石・生田のユニットによる乃木坂の楽曲、《ショパンの嘘つき》の歌詞ともダブる。本作にはピアノが重要なモチーフとして登場するのだが、矢咲との出会いによって新たな世界を知る三島が《ショパンの嘘つき》の主人公と被って、余計に三島とさゆりんが重なって見えた。
他者に聴かせるために歌おうとするのではなく、ただ純粋に音楽が好きで、狭い世界の中で歌う三島役に松村さんをキャスティングしたことが、この作品の世界観とうまく一致している。
三島が可愛らしい歌唱だったのに対して、⽮咲・小津Ver.の2人はミュージカル的に歌が上手い。
特に⽮咲と小津のベッドシーンに入る前、「私が必要?」と問いかける小津とそれに応える矢咲の歌唱は何度聴いても心が震えた。
似たようなことは原作の宮木さんもtumblrに書いていたのだが、矢咲の歌声は男役の声ではなくて18歳の女の子の声だと感じた。
配信を観た後で矢咲役の高月さんが「思い出のマーニー」の杏奈の声優を務めていたことを知ったのだが、言われてみれば納得できるなと思った。高月さんの声はボーイッシュな役を演じていても、少女特有の寂しさとか繊細さがこもっていると思う。
そして本作全体を通して私が一番惹かれたのは、小津の声だった。声優さんのように明瞭な声で、感情を押し殺したような語りが上手い。
ビジュアルもすごく綺麗で、推せる…となったので小津役の七木さんが別の舞台に出演する機会があれば観に行くかもしれない。
終盤の小津が死へと向かう場面はとても綺麗だった。崖の上から海に飛び降りるシーンは舞台でどう表現するんだろうと思っていたが、舞台の四方を巡った後しずしずと鳥籠状の舞台の外へと出ていき、波音の効果音が鳴るという極めて静かな演出だった。
この演出が原作の冷たい文体そのままに思えて、すごい、『雨の塔』だ…と思った。演劇だけど、劇的ではない表現が原作の世界観に忠実だと感じた。
ちなみに文体といえば宮木さんのtumblrにはびっくりした。
矢咲という「少年のような女の子」をちゃんと女の子として、女の子を魅了して止まない女の子を完璧以上に演じてくれて(「くれて」って略)ありがとう……。あの場にいた女オタク全員矢咲の女になったわよね……。
あんなに静謐で綺麗な文を書く方がこんなオタク構文を駆使してるんですね……
原作者さんがこんなにオタクの気持ちを代弁してくれることってそうそうない。
あと、考えさせられたのがこの文章。
「ドラマ校閲ガールの原作者の宮木あや子さんです」って紹介してもらえれば「ああ!ドラマ観てました!」って会話につながるから、ありがたいんです。ただ、今回に限っては「付けてほしくないなあ」と思ってました。雰囲気が全然違うし、読者の層もきっと違う。
(中略)
あと、宣伝に「禁断の」という文字が使われてたらイヤだなあとも思っていました。今はそれほど使われてないかもしれないけど、同性愛を扱う作品って宣伝文句に「禁断の恋」的な言葉を使用されることが多かったんですよ。私は好きになる相手の男女の垣根がすごく低いタイプで、禁断とか言われても何が禁断なのかちょっとよく判らないし、自分が理解できない言葉を使われるのはイヤだなあと思ってました。で、ふたを開けてみれば、そういった、あからさまに下衆の関心をひきそうな宣伝文句も一切なかった。ああ、この舞台の制作の人は、コロナ不況で舞台業界壊滅状態の中、自社の儲けよりも原作の世界をきちんと大切にしてくれてるんだ、って涙が出るくらい嬉しかったです。
この舞台が綺麗なのって、軽薄な宣伝をしなかったからでもあるんだなと思った。
『雨の塔』は自分が少女時代に好きになった作品だったから、舞台化にあたって安易な商売の道具にされなかったことや大衆向けコンテンツとして消費されなかったことが嬉しい。
それと同時に、「下衆の関心」から切り離された百合にはある種の魔力があるとも思った。
終盤で小津が自死を選んでも、つらい気持ちより美しいと感じる気持ちが勝るのは私が少女同士の関係性を過剰に美化しているからかもしれないし、思春期の私が仄暗い百合に惹かれたのもそのせいかもしれない。
しばらく百合文化から離れていたが、おたくの魂は成人女性になっても退廃美に魅力を感じるんだなという気づきを得られたので良かった。
今度実家に帰ったら久しぶりに宮木さんの作品を読み直したい。