激ダサDANCEで凍らせて

ハロプロとテニミュとその他雑記。

人生で初めて宝塚歌劇を観てきた

大学入学と同時に関西に引っ越してきてから、宝塚歌劇の存在は常に視界に入っていた。

関西人なら宝塚に興味が無くとも、宝塚大劇場でこれから始まる公演のタイトルはなんとなくわかるんじゃないだろうか。それくらい関西人の足である阪急電鉄の駅構内や車内は宝塚のきらびやかな広告で溢れている。

いつかは観たいと思い続けて4年以上きっかけを掴みそこねていたのは、宝塚という秘密の花園が怖かったからである。

阪急電車にお辞儀する生徒、お揃いの服で出待ちするファン、数々の「すみれコード」、宝塚歌劇は舞台自体と同じくらいその独自の世界の恐ろしさのようなものが注目を浴びてきた。少なくとも、私のような外部の視線からはそう見えた。

だが(詳細は話が脱線するので省くが)色々なきっかけがあって、私は今回の公演のチケットを手にした。

1月末の昼下がり、阪急宝塚駅から宝塚大劇場に至る「はなの道」を歩くと、それだけでなぜか浮ついた気分になった。周囲の建物もメルヘンチックで、なんとなく雰囲気が舞浜に近い。劇場に着くと中にはお土産物屋さんやらレストランやら写真スタジオまであって、劇場というよりほとんどテーマパークだった。

やっぱり宝塚は怖い。もちろん批判的に言っているのではなく、作り込まれた世界観に対する称賛としての「怖い」である。

 

私が今回観たのは雪組の公演で、前半がベートーヴェンの生きた時代を描いたミュージカルである『f f f -フォルティッシッシモ-』、後半がシルクロードを舞台にしたレビューである『シルクロード~盗賊と宝石~』と二本立ての構成になっていた。

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前半に観たのがミュージカルの『f f f -フォルティッシッシモ-』。私が普段観ている舞台は総合芸術としての魅力よりキャスト単体の魅力で勝負しがちなアイドルや若手俳優の舞台が中心なので、大掛かりな舞台装置で大人数が動く宝塚歌劇の迫力には驚かされた。メリーゴーランドの様に回転する床の上で繰り広げられる戦争シーンは臨場感がすごかったし、凝ったデザインの衣装を纏った大勢のタカラジェンヌ達はただそこにいるだけで舞台が華やいだ。

生の舞台を観ているはずなのに「うわー!ミュージカル映画だー!!」と思ってしまう。それくらい華やかなタカラジェンヌ達の集団の力や舞台のスケールの大きさ、低俗な言い方をすれば「金かかってる感」に圧倒されたのだ。

宝塚と言えばトップスターと呼ばれるカリスマ性を備えたお方が舞台をリードしている、という印象があったのだが(もちろん雪組トップコンビお二人の歌唱力と存在感は特別だった)、名前がある役に付いていないタカラジェンヌ達もとても魅力的だった。

一番感動したのは、兵士達の動きに音楽的インスピレーションを受けたベートーヴェンの構想が兵士と女性の姿を取って舞台上に現れるシーンである。

ナポレオン軍がロシアで敗戦し、兵士たちの屍に囲まれたナポレオンとベートーヴェンが語り合う場面の後、ベートーヴェンの脳内に響く音楽の視覚的メタファーとして四人一組となった兵士達とドレス姿の女性達が舞台上に現れ、楽譜上の音符の様に規則正しく隊列を組みながら踊り始める。

このシーンではベートーヴェンの構想が視覚イメージに変換されて観客へ伝えられる。視覚と聴覚の境目が曖昧になってひとつの大きな波となるシーンを目の前にすると、やっぱりミュージカルが好きだと思う。

実はベートーヴェンの作曲描写は終盤まで出し惜しみされており、だからこそラストシーンのカタルシスが大きい。最初にあらすじを見た時にはベートーヴェンの人生を描く物語、もっと言えばミューズの支えを得ることによって難聴という試練を乗り越える感動秘話的なものを勝手に想像していたのだが、実際はだいぶ印象が違った。

ベートーヴェンは割と序盤であっさり耳が聴こえなくなり、以降は作曲の苦しみよりもむしろ幼少期のトラウマや恋愛のトラウマが掘り下げられ、ベートーヴェンの人生は文化人や王侯貴族らの人生と絡み合っていく。

ベートーヴェンが主人公の話という先入観を持って観劇しているので、途中まではなぜベートーヴェンの作曲上の苦悩から革命やナポレオン戦争で死んだ民衆や兵士の苦しみへと物語が飛び飛びになるのかがわからない。

だがクライマックスで死の間際にいるベートーヴェン「第九」という曲を完成させ、不幸の象徴たる「謎の女」が歓喜の歌の輪に加わった時に、今までのすべてのシーンがこの一曲に繋がっていたことがわかる。

ベートーヴェン一人の人生が第九という曲を生むのではなく、この時代を生きた多くの人々の人生がベートーヴェンの音楽に収斂する構成が、第九という曲の壮大さにふさわしいダイナミックな物語を生んでいるのである。

ベートーヴェンがどうこうという話を越え、音楽や芸術の喜びという根源的なテーマを壮大な演出で表現したラストシーンでは理屈抜きに心を揺さぶられた。

 

『f f f -フォルティッシッシモ-』が終わった後は、休憩を挟んで筋書きのないショーである『シルクロード~盗賊と宝石~』が上演される。

開演前の舞台は撮っても大丈夫っぽかったので記念に。

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 席は2階前方の端っこだったのだが、傾斜がきつめの劇場だったので観やすかった。

ショーは万人がイメージする宝塚歌劇の世界そのものという感じで、高く脚を上げて踊るラインダンス、大きな羽を背負って大階段を下りてくるスター、テープカットの花ついたリボンを一人分の長さにしましたみたいなアレ(アレの名前なに?)、といった「テレビでみたことある、THE・宝塚な要素」をぜーんぶ観ることができる。

 

 タキシードを着た男役の皆さんはとてもハンサムで感動したが、実は私が一番かっこいいと感じたのは雪組トップ娘役の真彩希帆さんだった。

本当に予備知識のないまま観たので、私が公演中かっこいいと思っていた娘役さんたちがみんな衣装替えした真彩希帆さんだったことも、真彩希帆さんが今回の公演をもって退団してしまうのも家に帰ってから知った。

シルクロード~盗賊と宝石~』と題されたショーには明確なストーリーがあるわけではないが、衣装や楽曲のモチーフはアラビア、インド、中国とまさにシルクロードを旅するように移り変わっていく。

真彩さんのかっこよさに気づいたのは、上海を舞台にして《Lone Digger》を歌うシーン。この曲は唯一原曲を知っていたので、宝塚のショーって聴きなれた曲を使うこともあるんだなと少し驚いた。この曲のサビではラップのように猛スピードで歌詞を捲し立てているにもかかわらず真彩さんの佇まいには威厳があって、とにかく最強だった。

その後真彩さんはステージ上のお立ち台のようなところから降りてきて、男役さん二人と一緒にタンゴを踊る。その姿も男役のお二人に負けず劣らず堂々としていた。《Lone Digger》ですでにかっこよさの最高到達点にいたのに更にそれを超えてくる真彩さんに心を奪われた。

ショーのフィナーレでは主要キャストが順番にメインテーマをソロで歌いながら大階段を降りてくるのだが、真彩さんが「お前と共に行こう~」と歌うシーンでまたしても心臓を撃ち抜かれる。

花のように可憐な宝塚の乙女の皆さんは常に一人称が「わたくし」で二人称が「あなた」、三人称が「あのお方」なんだろうなという勝手なイメージがあったので、真彩さんがとんでもない声量で「お前と共に行こう~」って歌った瞬間これは反則だろうと思ったし、娘役のトップに立つ者としての威厳、品格を感じさせるソロ歌唱は本当にかっこよかった(人間の脳は感動を抑えながら記憶に焼き付けようとしたことほど逆に記憶に残せないらしいのでこの辺はいろいろ間違った記憶かもしれない)。

 

そして例のデカい羽は公演の千秋楽とかスターの退団みたいな特別な日に登場するものだと思っていたが(アイドルで言う卒コンドレスみたいなものと認識していた)、トップコンビと二番手男役の方は今回のようななんでもない日にも毎回羽を背負ってくれるらしい。

ド派手な羽を背負ったタカラジェンヌの皆さんが順番に大階段から下りてくる光景は完全に「祝祭」で、こんな景気良い演出毎日やるもんじゃないだろと思ったがそれを毎回見せてくれるから宝塚は宝塚なんだろうと思った。

宝塚大劇場という神殿では毎日新たな国が建国され、新年を迎え、神々が降臨している。エブリデイ祝祭だ。この神殿では非日常こそが日常なのである。

 

宝塚の舞台はテレビで一回だけ観たことがあって(2019年星組公演の「GOD OF STARS-食聖-」)、その時はまだストーリーの面白さやスターコンビの歌や美貌にばかり惹きつけられていた。

しかし今回初めて生の宝塚を観ると、お上品なはなの道やきらびやかな劇場ロビー、そしてめまぐるしく移り変わる舞台装置に至るまで、スターを取り巻くすべての環境が宝塚という夢の世界を形成しているのだと実感した。

宝塚にハマるというのは、舞台が好きという次元では済まないことで、きっと宝塚駅の改札を出た瞬間そこがもう「沼」なのである。

こんな恐ろしいものにハマってはいけないと思いつつ、あの日以来阪急の駅や車内では次回公演である『ロミオとジュリエット』のポスターが私を沼に突き落とそうとしている。