激ダサDANCEで凍らせて

ハロプロとテニミュとその他雑記。

アニメ『昭和元禄落語心中』の魅力

バトルもの、スポーツもののアニメのあの、ウォアーー!!って叫んでる主人公の顔がアップになって貴様ーー!!って叫んでる敵の顔がアップになってずっと繰り返し、みたいな冗長さが本当に見てられない。いや、人が戦ってるアニメに限らず漫画原作のアニメは大体途中で飽きる。

20分×12ないしは24話という枠組みに縛られている以上話のリズムが間延びしたり駆け足になったりするのはしょうがないのだが、自分のペースで噛み砕きながらページを捲れる漫画の方が好きだった。

(私はアニメに限らずYouTuberが作った解説動画もテレビのバラエティも映像授業も、推しが喋る配信でさえも集中して動画を見ることができない。映像美を追求した映画とか、音楽やダンスの躍動に溢れた映像とか、そういう情報量が多いもの以外は飽きてしまう)

 

そんな私が最近、心を射抜かれたアニメがある。雲田はるこ原作の漫画をアニメ化した『昭和元禄落語心中』である。

落語界の盛衰と師弟関係や兄弟弟子の絆を描いた本作品一番の見せ場は他ならぬ落語家の喋りであり、人の話は2倍速にしないと聞いていられない私が『昭和元禄落語心中』計2期全25話に耐えられるわけがなかった。

と思っていた。

夢中になって一気見しました。もちろん等倍速で。

 

そもそも『昭和元禄落語心中』(今気付いたが『昭和元禄落語心中』って略称が無いんか?私はこの記事を書き終えるまでずっと『昭和元禄落語心中』の8文字を打ち続けないといけないんでしょうか)を見始めたきっかけは、友人がTwitterで『昭和元禄落語心中』はキャストの表現力も作画の表現力もすごいから見ろと布教しているのを目にしたからだった。

布教ツイートを読んで更に私が気になったのは、作中では同じ落語の演目が違った意味合いで繰り返し演じられていて、いちいち感情移入してしまうという一文だった。私は演者と役の二重写しがマジのマジで好きだ。古典落語の物語が落語家本人の人生とリンクしながら何度も演じられるなんて最高に決まっている(実際、最高だった)。正直落語に関しては全くの無知だったので、途中で飽きるんじゃないかなという疑いも多少抱いてはいたが興味が掻き立てられた。

 

凄い。1期第2話にして早くもこのアニメの表現力に刺殺された。

初高座(落語家としてのデビューみたいなもの)を迎えた主人公・菊比古が客席を白けさせてしまうシーンを見た時、私は人生で初めて集中力が切れたとかテンポが遅くてつまらないという以外の理由でアニメの一場面が早く終わって欲しいと感じたのだ。

冷えていく客席の温度、菊比古の頬を流れる汗、居た堪れない空気が画面越しに伝わってくる。この場面から逃げたかった。これが漫画だったら急ぎ足でページを捲ってしまうんじゃないかと思う。

 

このアニメにおいて、臨場感溢れる「上手い」落語のシーンでは、一人で何役もこなしながら話を展開する落語家が役を切り替える度にその落語家を映すカットも切り替わり(そのカットの繋ぎ方が絶妙なので、あれ、登場人物が複数人いて会話してる?という錯覚を視覚的に味わえる)、時には落語家の生んだ想像の世界をアニメーションとして差し込んでいる。

一方で菊比古の初高座のような「白けた」落語のシーンでは、客席から高座を固定カメラで撮ったような長いカットが続き、単調でつまらないシーンが意図的に作られている。

 

だから2話のあのシーンはとにかくつまらないのだ。作中で菊比古の落語を聞いている観客もつまらないし、画面越しに『昭和元禄落語心中』を見ている私たち視聴者もつまらない。

それにもかかわらず夢中で見てしまうのは、石田彰さんのあまりに痛々しくぎこちない声を吹き込まれた菊比古が可哀想で、死ぬほど感情移入してしまうからだ。

石田彰さんは凄い。このアニメを全編通して見る時に、凝り固まった噺しかできなかった菊比古がだんだんと柔らかく自由な声を手に入れていく過程は菊比古のリアルな成長を追っているようにしか感じられない。でも、当たり前だけど、ぎこちない菊比古の声もしなやかな菊比古の声も石田さんが意図的に演じ分けているのであって、声優の石田さんの落語が実際に上達しているわけではないのである。

声優さんのこの妙技を体感できただけでも『昭和元禄落語心中』を見た価値があった。

 

このアニメが視聴者を惹き込む仕掛けは、カットの繋げ方や声優さんの技術だけにあるのではない。

時代の移り変わりの境目や現実とファンタジーの境目がシームレスで、いつの間にか時が進んでいつの間にか死神や亡霊が登場している不思議さにもこのアニメの魅力がある。

 

前者の時の経過の表現に関して、例えば大正に造られた寄席の建て替えの話が持ち上がり、席亭と与太郎が寄席の歴史について語り合うシーン。席亭は寄席を取り壊さなくてはいけない理由として、「関西で大地震があったろう?あれで建物の耐震基準とかいうやつがべらぼうに厳しくなるんだってよぉ」と話すのだ。ここで視聴者は物語の時間軸が阪神淡路大震災の直後まで進んでいることを察する。

昭和初期から平成にかけての歴史を描くこの作品では、会話の中でさりげなく時代ごとの大きな事件に触れることで時の流れを示唆している。もし与太郎の見ているテレビから阪神淡路大震災の速報が流れているシーンなどをぶち込みでもしたら作品の世界観は一瞬にして崩れていただろう。

会話だけでなく、時の流れは街の景観、電化製品の形状、女性の服装など様々なディテールで表現されている。そういった些細な映り込みは野暮な時代背景の説明よりもずっと雄弁に時代を語り、ノスタルジーを演出しているのである。

 

後者に挙げた現実とファンタジーの境界の曖昧さも見事だ。昭和から平成にかけてのおよそ80年、数世代に渡る物語を描く本作の構成は、典型的なNHKの朝ドラの構成に近い。この作品は卑近な日常や個人の視点から見た世相の変化、つまり私的で現実的な歴史に焦点を当てている。そこに死神や亡霊といった怪異が突然入り込むと、普通ならばすさまじい違和感が生じる。しかし『昭和元禄落語心中』では、ごく当たり前のように死神や幽霊が菊比古(=八代目八雲)の前に登場し、(ネタバレを避けて言うと)2期第9話のラストではこの世のものではない存在が現実の人間の精神や身体に深く干渉することとなる。

物語の後半になって朝ドラ的世界観に怪異が入り込んだ時、私たちは全く違和感を抱かない。その理由の一つに、落語家は自らの声によって見えざるものを生み出し、聞き手にイメージを見せる力を持っているということが作中であらかじめ強調されているということが挙げられるだろう。このアニメの視聴者も落語家たちが生み出す不思議な世界に浸かっているうちに、まあ、死神が見えてしまってもおかしくないかな、と思わされてしまうのだ。

また、作中で描かれるハレの空間の存在もその違和感を揉み消している。この作品では、幻想的な橙色の光に包まれた夜の花街や縁日のシーンが頻繁に登場する。こうした非日常の世界が現実とファンタジー世界の境界を曖昧にし、死神や亡霊の存在を物語にスッと馴染ませているのである。

ありふれた日常と地に足つかない非日常が融和した『昭和元禄落語心中』の世界観は、まるで古典落語の不思議な世界のように人を惹きつける。

 

話は変わるが、菊比古の静かで悲しげな佇まいと、ハレの空間の喧騒の対比はハッとするほど美しい。菊比古は絶えず客席の笑いや兄弟弟子の熱気や非日常空間の喧騒に包まれながらも、どこまでも孤高で美しい存在なのだ。

 

ここまで3000字近く『昭和元禄落語心中』の魅力を語ってきたが、本当は菊比古がどうしようもなく好きになってしまったということ以外に語るべきことは何もなかった。でもこの作品がキャラ萌えやBL萌えに終始する作品ではないということは言っておきたい。冒頭の友人の布教通り、『昭和元禄落語心中』は作画の繊細さも声優さんの演技もなにもかもが洗練されていて、アニメとしての完成度がとても高い。小説にも漫画にも実写にもできない、アニメにしかできない仕事をしている。

美しい色調と音楽に彩られた東京の街を生きる菊比古に出会えて、良かった。

 

昭和元禄落語心中』を見てほしい、というお話でした。