激ダサDANCEで凍らせて

ハロプロとテニミュの推し事記録とその他雑記。

小林古径のおっぱい

私は嫌な子供だったので、小学生のころから休み時間の娯楽と言えば社会の資料集を眺めることだった。高校生になっても資料集好きは変わらなかったが、幸い資料集仲間(?)ができていたので休み時間は友人たちと日本史の話をして過ごしていた。

山川の詳説日本史図録の中で一番仲間内にウケていたのが、日本画家・小林古径が上半身裸の女性を描いた《髪》という作品の図版だった。リアルさのかけらもない無機質なおっぱいと凝り固まった謎のポーズがウチらJKのツボにハマったのだ。ウチらは今になって男子小学生の無邪気な心を取り戻していた。おっぱいが好きだった。

 

国指定文化財等データベース

(リンク先は文化庁HP。《髪》の図版と解説が載っている)

 

高校を卒業して、私は田舎を出て関西の大学の史学科に進学した。関西という土地柄もあって元々好きだった美術館に行く機会が格段に増え、3年次に進級する時には日本美術史を専攻することに決めた。

日本美術を学び始めてから美術に関する色々な書籍や論文を読んだし、美術館にも毎週のように通っていた。

ある時、なにかの現場で東京に遠征したついでに寄った山種美術館で、私は古径の《清姫》に出会った。間近で見る古径の黒髪の描写や澄みきった空気を表現する色彩は言いようもなく美しくて、古径が描く静謐で格調高い世界に魅了された。

 

 

その出会い以降、高校生のころあんなにウケていた《髪》は全くおもしろい絵ではなくなっていた。無機質なおっぱいも固い姿勢も、静かな緊張感が張り詰めた美の表れであったのだ。

 

美術を学ぶということは、美しいと感じるものの幅が広がることだと思う。作品の背景を知り、様々な作品に触れることで、ある日突然それまで理解できなかったものの美しさがわかる瞬間がやってくる。

私にとってのその「瞬間」は古径の絵であった。美術を学ぶ中で古径が目指した新古典主義的な理念を知り、日本画とは線描の美を追求してきた伝統を持つものであると感じ始めていた時に出会ったからこそ刺さった美しさだった。

芸術は感性で楽しむものだという言説は正しい。しかし感性のみで受信できる美しさは自分の手の届く見慣れた範囲のものより外へ広がりにくい。「瞬間」に辿り着くまでに必要なのは机上の学びと実物の鑑賞体験の繰り返しなのだ。

 

美術を観る目を養うことはとても難しく、私も美術館に通い始めてからポジティブな「瞬間」には何度も遭遇したが、何十年も美術と向き合ってきた大学の先生方が言う「この作品は下手だ」、「これはこの画家の真作ではない」といったような好き嫌いを越えたネガティブな気づきにはほとんどピンと来ない。

美術研究と趣味としての美術鑑賞を同列に語るのは乱暴かもしれないが、感性というふわっとしたものを支えるのは学習と経験であって、芸術をふわっとした目だけで観るのはもったいないと最近になって強く思う。

 

清姫》に感動した私は古径の作品が展覧会に出ると足を運ぶようにしているし、過去の古径関連の展覧会図録を集めたりもしているが、いまだ実物の《髪》は見たことがない。所蔵先の永青文庫のHPをちょくちょくチェックしているものの、なかなか出展される気配がないのだ。

重要文化財に指定されている有名な作品なので気長に待っていればいずれは見られるだろう。古径のあの繊細で冷たい線は生で見てこそ美しさがわかる。

一刻もはやく生のおっぱいが見たい。