激ダサDANCEで凍らせて

ハロプロとテニミュとその他雑記。

アラビヨーンズナイトという虚構

BEYOOOOONDS主演のミュージカル、アラビヨーンズナイトを観てきました。

岡村美波ちゃん演じる高校の演劇部員と西田汐里ちゃん演じる脚本家がアラビアンナイトの世界に飛ばされてどったんばったん大騒ぎみたいな話です。

ハロプロ現場に参戦したのは去年12月のBEYOOOOONDS1stライブ以来。久しぶりに生のびよちゃんを浴びて、あまりの眩しさに卒倒しかけました。大変な時代ですが、これからゆっくり現場が復活してくれるといいなー。

 

以下、アラビヨと(若干)リリウムのネタバレしてます。

 

このミュージカルの構造は、虚構on虚構on虚構。虚構のマトリョーシカ。複雑すぎて書いてる自分も混乱してます。

 

まずBEYOOOOONDSというグループって特殊な集団で、生身のアイドルではあるけど各々の「役」を持っている虚構性の強い集団。「役」を持っているというか、眼鏡の男の子の設定をずっと引きずっているという表現が近いかもしれない。

夢羽ちゃんは永遠の光のヒロイン、こころ君は夢羽ちゃんの光に照らされ続けるイケメン。この構図は楽曲の世界観でも今回のアラビヨでも去年上演されたリボーンでも変わりません(眼鏡の世界線でこころくんと結ばれるのは桃々姫ちゃんだけど、眼鏡はあくまで夢羽ちゃんという少女漫画のヒロインの視点での物語)。

 

アラビヨの劇中で、くるみちゃん演じる乳母は「私の名前、高瀬でぇす!!」って言い出しそうだし、みいみ演じる演劇部員は「島倉さん、お電車に間に合ったようですね♡」って言い出しそう。

BEYOOOOONDSの中では高瀬くるみは嫌味だけど憎めない女、岡村美波は天真爛漫な女の子、ってキャラが固定されていて、それは楽曲内であろうと演劇内であろうと、どんな世界観でも生き続けているような気がします。

 

そんなBEYOOOOONDSのメンバーが各々のキャラクターを保ったままアラビヨの登場人物を演じるのが二重目の虚構です。そしてアラビヨの物語の中で劇中劇が何度も繰り広げられる、それが三重目の虚構。

そういう意味で私はこのミュージカルが虚構on虚構on虚構の舞台であると感じたわけですが、すごいのは皆どこまで虚構を重ねても強烈な個性を持った本人であり続けるところ。

 

BEYOOOOONDSは一人一人の色が強すぎて、何を演じていても本人になってしまう。本業の女優だったらそれはあまり良いことではないけれど、BEYOOOOONDSという特殊な劇団にとってそれは逆にプラスに働いているように思えます。メンバーの本来の個性とその上から被せたキャラクターの一貫性をまるごと愛することができる、それがBEYOOOOONDSの魅力のひとつだからです。

 

アラビヨでは本人の個性を全面に出しつつもみんな演技がちゃんと上手い。

特に上手いなと思ったのは美鈴役の西田汐里ちゃんと、シャハリヤールの乳母・ジラ役の高瀬くるみちゃん。ジラは前田こころの育ての親役だし、歳離れたゲスト持ってくるならここじゃない?って思うけど、こころちゃんとわずか3歳違いのくるみちゃんに演じさせるのがすごい。くるみちゃん、文化祭実行委員長の恋といいビタミンMEといい、口うるさいおばさんの役が抜群に似合う。(褒めてる)ちょっとわざとらしい演技も最高にキュートで好きなんです。(本当に褒めてます)

小柄で声も可愛いから、偉そうな役を演じてもBEYOOOOONDSらしいコミカルな感じに収まるんですね。

 

全員が輝いていて全員が大好きなBEYOOOOONDSですが、私のびよの推しはこころちゃんと汐里ちゃん。2人とも主要な役に選ばれていて嬉しかったです。

私はどうしても陰のある子に惹かれてしまう。

工藤遥ちゃんや生田衣梨奈ちゃんみたいなスクールカースト最上位系の光のイケメンももちろん好きなんですけど、私みたいな闇のヲタクのハートを射抜いてくるのは加賀楓ちゃんや前田こころちゃんみたいな理系っぽい静かなイケメンです。

 

すっかり男役が板についてきたこころちゃんは、工藤遥ちゃんがリリウムで好演したファルスを意識して王を演じてるんだなと思いました。アラビヨは絶望&絶望のリリウムと違ってコメディ色が強い物語だけど、こころちゃんが演じたシャハリヤール王は力を持つ故に孤独なキャラクターで、ファルスと重なるところも多い。寂しさを隠すような険のある台詞回しには、こころちゃんが憧れている工藤さんを研究したんだろうなあ、という印象を受けました。

 

同じ男役でも宝塚ファンの平井美葉ちゃんは宝塚の男役を意識した話し方をしているような気がします。こころちゃんは他者を拒絶するように強く話す冷たいイケメン、みよちゃんはアクセントを大袈裟に付けてはきはき話すキザなイケメンって感じ。普段は泣き虫なこころちゃんや普段は小さい声でお話してるみよちゃんが舞台上では誰よりもイケメンなのがすごく可愛い。

 

イケメンキャラじゃなくても私はやっぱり陰のある女の子が好きで、汐里ちゃん演じる美鈴の心情の揺れがすごく好きでした。汐里ちゃんはライブで歌っていてもシェイクスピアや美鈴を演じていても、いつも儚い寂しさや憂いを纏っていて、それは演技じゃなくて彼女が元々持っている魅力なんだろうなと思います。

シェイクスピアも美鈴も物語を作るキャラクター(劇作家の役)で、周囲の物事を穿って見つめているような、汐里ちゃんの不思議な佇まいがそれにぴったりハマる。そして今回のあらびよは汐里ちゃんのかわいい捻くれがみいみのおっきくてまんまるなラブに包まれて、世界がラブって感じでした。

 

ameblo.jp

千秋楽を終えてのみいみちゃんのブログ、ラブまみれで最高でした。なんて真っすぐな女の子なんだろう。

みいみはしとねを演じていても舞台を降りてもラブの化身なんですね…

 

メンバーの入れ替えを繰り返し、その変化ごとエンタメに変えていく今までのハロプログループと違って、BEYOOOOONDSは一人一人がそれぞれ代替不可能な「役」を持つグループだと思います。仮にこころちゃんが卒業したとして、代わりのイケメンを投入して眼鏡の男の子役させますってなったらそれはきっとBEYOOOOONDSではない。

アラビヨを見て、ますますBEYOOOOONDSという劇団の虜になりました。

 

虚構の世界をどんどん広げながら夢と希望と多幸感も加速していくBEYOOOOONDS、これからどんな展開を見せてくれるのか楽しみです。

みんな可愛くて最高でラブだよ…

 

アニメ版ヒプマイが軽率に爆発して最高

某ノシス某クのこと、見たこともないのにちょっと小馬鹿にしてたんですよ。

難読オシャレなキャラの名前といい、オッドアイ・メガネ・和服・スーツ・常にペロペロキャンディ食ってる奴、みたいな女オタクが好きそうなアイコンをこれでもかというくらいぶちこんだキャラデザインといい、あーあーみんな流行りに乗ってますわ、碧棺左馬刻www碧棺左馬刻てwwwどんなネーミングやねんwww女子中学生のオタクのハートを狙い撃ちすなwwwって思ってた。

 

でもある時、TwitterのTLを眺めていてふと目に留まった「ヒプマイのアニメは完全にギャグ」「ラップを浴びると敵が爆発する」って情報を見て、小馬鹿にしていた某ノシス某クがめちゃめちゃ気になり始めてしまった。トンチキをこよなく愛する私は脈絡なく人間が爆発するみたいなやつに目がなかったのだ。

 

早速NETFLIXで一話から見始めた。開始即ラップで人間が爆発した。最高だった。ラップの字幕がド派手なフォントで画面にデカデカと登場するのも、私のトンチキ心をくすぐった。

イケブクロで人間が爆発したのもつかの間、今度はヨコハマでも人間が爆発した。深夜の港でクスリの売買の現場を押さえられたヤクザ達がジャケットの内ポケットに手を入れ、お?銃撃戦か?と思いきや取り出したのはまさかのマイク。この時点で死ぬほどおもろいのに、ヤクザ達はラップを浴びて爆発。意味が分からなくて最高だった。

どうやら第一話は各グループの活躍と紹介をダイジェストで描く話のようだ。次に登場したのがシブヤの三人。金欠解消のために路上ライブでチップを稼ぎ始める。ライブを聴いた女子たちが黄色い声をあげながらイケメン三人に群がるのだが、彼女たちは一向に爆発しない。爆発を期待したが、とうとう爆発せずに終わってしまった。

私は爆発を求めていた。切実に。

そうだ、この感覚こそがトンチキ信者が感じ得る最大の喜び、トンデモ世界観による洗脳だった。テニプリにハマってテニスの試合で人間が吹っ飛ばないと満足できなくなってしまったのと同じように、ヒプマイに落ちたせいでラップで人間が爆発しないと満足できなくなってしまったのだ。

私の脳はわずか15分ほどの間で爆発に喜びを感じるように調教されていた。

 

そして物語のメインとなる4グループのトリ、シンジュク代表のストーリーがはじまる。

しっかり病院の屋上で人間が爆発した。

そうだよ、正解…

 

ヒプマイ、世界観がヤバすぎて大好きになってしまったのだが、人物の表情の豊かさや髪の毛の流れの自然さ、都会の街並みの空気感といった作画がすごく丁寧で綺麗だし、ラップと歌のクオリティも高い(ラップ詳しくないから素人の感想だけど)。

トンチキ作品は世界観がめちゃくちゃでもビジュアルと歌に関しては真剣に高みを目指していなくてはいけないのだという私のわがままな希望を叶えてくれる最高のアニメだった。

敵と戦うときにギラギラのエフェクトと共にシンプルな黒いマイクが各キャラクターに合わせた個性的なキラキラマイクに変化するのも、リーダーと両サイドを固める二人っていう三人組のフォーメーションも、勧善懲悪バトルものアニメの王道を行くかっこよさで大いに心がときめいた。

というかオッドアイの兄弟も碧棺左馬刻って名前も絶対かっこいい。そんなん皆好きになるに決まってる。

なーに女オタクが好きそうな要素ぶち込んで人気かっさらってんだよ某ノシス某ク!と思っていた私だったが、女オタクの心は想像以上に単純だった。

 

これから毎週月曜日が楽しみです。来週もかっこよく敵を爆破してくれよな!

 

 

トンチキへの信仰告白

一目見た瞬間にそのアホさに笑い転げて、後から脳にじわじわ染みてくる作品が好きだ。これ、一周回って世の真理を説いた哲学なんじゃないか?みたいな作品。

私はそんな「トンチキ」に救済されながら生きている。

 

トンチキ、地の塩、世の光。

 

日本国語大辞典によると、「トンチキ」という言葉は「ぼんやりしていて、気のきかないこと。また、その人。のろま。とんま。まぬけ。」と解説されています。本来はマイナスイメージを持つ言葉ですが、この用法から転じて「トンチキ」は現代の音楽シーンにおいて意味不明ながらも明るく滑稽な楽曲やパフォーマンスの総体を指す言葉として用いられます。

音楽シーンにおける「トンチキ」という言葉が広く一般に認知されるきっかけとなったのは、2018年にDA PUMPがリリースした楽曲《U.S.A.》の流行でしょう。《U.S.A.》は歌詞、衣装、ダンス、MVなど様々な面においてその「ダサかっこよさ」が話題となり、異例のヒット曲となりました。

 

私は基本的にトンチキなものは何でも好きです。歌詞は意味が分からなければ分からないほど良いと思ってるし、一着の衣装に使われる布の種類は多ければ多いほど良い。このブログのタイトル「激ダサDANCEで凍らせて」も振り付けはダサければダサいほど素晴らしいという思想に基づいて付けました。

その愛するトンチキコンテンツの中でも特別に好きなのがハロプロモーニング娘。をはじめとするハロー!プロジェクトのアイドル)とテニミュ(『テニスの王子様』を原作としたミュージカル)です。ハロプロテニミュも、アホみたいな世界観とふざけてるとしか思えないセンスに笑ってたらいつの間にか本気のパフォーマンスに魂をねじ伏せられていて、いつの間にか好きになっていました。好きになったというより、気づいたら入信していたという表現が近い。

 

ちなみに「トンチキ」という言葉は他にもジャニーズとか宝塚歌劇でも使われているらしく、関ジャム(関ジャニ∞が出演する音楽バラエティ番組)でジャニーズトンチキ曲の特集が組まれたり、宝塚でもぶっ飛んだストーリーや演出の演目がトンチキ作品としてファンに愛されていたりするそうです。

私はSexy Zoneが「ドゥバイ 楽しい街並み ダンシング! 夢の噴水ショー 長い救急車 ポリスはスーパーカー*1」とか歌ってるの見たら多分すべてが良すぎて入信しちゃうし、この前NHKで放送してた宝塚の『GOD OF STARS -食聖- 』を見た時にはフライパンを持ちながらラップバトルを始める主人公とライバルを見てもう半分入信してしまいました。これ以上信仰の沼を増やすのが怖くてジャニーズと宝塚には深入りしないようにしています。我々は必ず世俗の世界を生きなくてはならないので。

 

ハロプロテニミュってファン以外の人から見たらすごくダサくて、ファンが見てもやっぱりダサい。試しに「♯つんくのこと天才だと思った歌詞を晒せ」「♯テニミュ歌詞が天才選手権」でTwitter検索を掛けてみてください。もしくは「ハロプロ ジャケット ダサい」「テニミュ 衣装 ダサい」でgoogle画像検索を掛けてみてほしい。正気か?ってなっちゃうから(テニスウェアの上から貴族みたいなキラキラジャケットを羽織って大真面目に歌ってる跡部景吾の画像貼りたいけど著作権とか肖像権がアレなので貼りません)。でもファンがそのダサさにハマってしまうのは、ステージ上でわけわからん衣装を着てぶっ飛んだ曲を歌う彼女達、彼等がいつでも真剣だからだと思います。

また《U.S.A.》の話に戻ってしまいますが、OriconインタビューでのISSAさんのコメントはトンチキ曲がなぜ人の心を打つのかということについて完璧な答えを出しているので紹介します。

 

正直、最初は『おい、まじか。これかよ』という思いもありました(笑)。でも、僕らにできることは“完璧に仕上げること”なので。そこでスイッチも入りましたし、“U.S.A.という場”で、“しっかり遊ぶ”“真剣にふざける”などの方向性が見えた時点で、違うものに見えました。

https://www.oricon.co.jp/special/51204

 

トンチキは演者の高い技量(歌唱力、ダンススキル、舞台上でのカリスマ性)なしには成立しません。ダサいことを適当にやっていたら本当にただのダサいステージになってしまう。ハロプロにしろテニミュにしろ、ふざけた歌詞に真剣に向き合い、高いレベルで歌いこなそうとする姿勢が言語化できない感動を生み出しているのです。

その真剣な姿勢は、メンバーやキャストの態度であると同時に歌詞のメッセージにも表れています。

 

世界中をパラダイスに 変えてみせなよ

Wow Wow Wow

今 光れ! 真剣に生きろ

地球の怒りに逆らうな

この柔肌に 嘘などないんだ

 

恋愛ハンター/モーニング娘。

 

戦え ジンジンジン

ぶつかっていけ ガガガッツ

ヒートアップや 太陽熱超えろ

打ち合え バンバンバン

立ち向かってけ ダダダダッシュ

試合・メイクス・ミー・ハッピー

テニス・メイクス・ミー・ハッピー

うちらのハートは 高鳴るパーカッション

 

(うちらのハートはパーカッション/四天宝寺中学校)

 

シンプルにダサいし意味が分からない。でもダサいからこそ心にじわじわ染みてくるものがあって、真っすぐすぎる歌詞を真っすぐに歌うメンバーやキャストの姿勢に心を打たれます。泥臭い努力を肯定するトンチキ曲は、そつなく無難に生きることを良しとする風潮の中を生きる我々に向かって、必死でダサく生きても良いのだと語りかけてくれるのです。

 

ハロプロの歌詞やテニミュ(というよりテニプリ)の物語には、デカすぎる概念が頻繁に登場します。特に目立つのが地球、宇宙、愛。ここは愛知万博か?

ハロプロの歌詞に地球だの愛だのがやたら出てくるのは有名な話で、地球回る 宇宙もDance Dance*2だし、テニプリの世界観がいちいちクソデカスケールなのも有名な話で、テニスしてたら引力の力で地球に隕石が降ってくるし*3作中ではテニスへの愛が最強の切り札になってしまう。

地球や宇宙は意味不明な面白さを演出するものであると同時に、未知の世界や無限の可能性のメタファーでもあります。トンチキコンテンツにおいては外界へのポジティブな感情を表現するために、しばしば広大な概念が脈絡なく登場します(さっき引用した《U.S.A.》や《バィバィDuバィ ~See you again~》で意味もなく楽しげな遠い異国の様子が描写されるのも、そういうことだと思います)。

 

ここでトンチキの定義を勝手に整理したいと思います。

 

トンチキの三大定義

  1.  一見意味不明でダサい物事にも真剣に向き合う姿勢
  2.  努力と積極的態度の重要性を語る
  3.  「地球」「宇宙」「愛」といった広大で曖昧な概念が脈絡なく登場する 

トンチキコンテンツは「努力」や「積極的態度」の重要性を語りますが、最終的に「地球」「宇宙」「愛」などの壮大なスケールの概念が物事を解決します。人が必死に努力を重ねて行きつく先はいつでもクソデカ概念なのです。C’mon, baby アメリカ どっちかの夜は昼間。人間は小さな存在。

 

トンチキ曲を聴いたとき、人はそこに隠されているはずのメッセージを考えてしまう。「帰りにうどん食べてくわ 明日が待ってるもん*4」とは何なのか。「俺たちに触るな ブラックホールに送り込むぞ*5」とは何なのか。我々凡人は突然降ってきたうどんやブラックホールに戸惑いを隠せません。でも本当は、言葉には必然性が無くても良い。「ラッキーだけで一生もたない TIKI BUN*6」にも、「ダメな時ほどシャカリキファイトブンブン*7」にも、きっと深い意味はないんです。ただ語呂が良かったからブンブン言ってるだけ。

意味が分からないからこそ私たちはその意味の空白に惹きつけられ、この歌は確かに私のことを励ましていると感じてしまう。そこにトンチキの魔力があるのだと思います。

 

私は絆とか人類愛とか汗と涙とかそういうものに心を動かされる人間じゃないです。むしろ何に対しても斜に構えてしまうひねくれた人間。

なのになぜ底抜けに明るくて恥ずかしい程に暑苦しいハロプロテニミュを好きになってしまったかというと、一見ポジティブ全開に見えるハロプロテニミュが本質的なところでは「孤独」を歌っているからです。

トンチキの圧倒的な肯定力と包容力は、孤独や寂しささえ否定しない。

 

例えばモーニング娘。が出演したROCK IN JAPAN 2019のセットリスト。

 

EVERYBODY SCREAM 意味ないけど

コンビニが好き HAHAHAHA

 (ザ☆ピース!/モーニング娘。

 

って歌っててほんとに意味ないな?って思ってたら最後の最後に6万人の観客を前にして

 

WOW WOW WOW みんなロンリーBOYS&GIRLS 

ロンリーBOYS&GIRLS

 (ここにいるぜぇ!/モーニング娘。

 

って叫んでて、すごいよハロプロ、意味はわからないけど孤独すら肯定してるんだ、って思いました。

 

テニミュで言えば、全国立海公演で主人公のリョーマがラスボスである幸村に勝った後に歌うソロパート。

 

冷たく燃え上がる 心の中の炎

明日をこの手に入れるために

負ける訳にはいかないんだ

一人で立ち向かう コートは孤独な夢

確かな未来見つけるために

限界まで走り抜けてやる

 (THIS IS THE PRINCE OF TENNIS)

 

仲間との絆を語ってきたテニミュの物語において最後に主人公が歌うのは、結局人間は孤独な戦いに向かわなければならないという真理です。

でも勝負と向き合うことの厳しさに心を打たれたのもつかの間、その直後にはキャスト全員でTHIS IS THE PRINCE OF TENNIS♪ HE IS THE PRINCE OF TENNIS♪って歌いながら中腰でテニスラケット構えたまま舞台上で反復横飛び始めるんですよ。

ダサすぎる…

好きだ…

そしてキャスト挨拶が終わって本当の本当に最後の曲。シャカリキファイトブンブン~♪アイライクユーフワフワ~♪(意味不明)で締めて幕下り。

 

目の前にある厳しい現実から何もかもがデカすぎる意味不明な世界観への転調に私は脳震盪を起こし、緊迫感とぶっとびを自在に行き来する歌詞にトンチキの魔力を感じました。

 

ここまでトンチキへの信仰を語ってきましたが、「意味の分からなさ」が魅力のトンチキを言葉で的確に説明するのは不可能です。

ぜひ適当に動画検索をかけてトンチキの哲学を感じてください。

探すのが面倒なのでリンクは貼りません。真っすぐで一生懸命なトンチキが大好きと散々言っておいて、私自身の人生のモットーは省エネ。完全に勝田里奈側の人間であり、財前光側の人間なので。(そんなことある?)

*1:Sexy Zone《バィバィDuバィ ~See you again~》

*2:アンジュルム《46億年LOVE》

*3:劇場版 テニスの王子様 二人のサムライ The First Game』における手塚の対戦シーン

*4:℃-uteDanceでバコーン!

*5:氷帝学園《凍てつく者の熱き思い》

*6:モーニング娘。TIKI BUN》

*7:テニミュ3rdシーズンアンコール曲

装苑11月号 アンジュルムの衣装の記憶

装苑の11月号にアンジュルムが載っているらしいので買った。

 

アンジュルムはメンバー自身もオタクもアンジュルムは個性派!アンジュルムは個性派!って連呼しているようなグループで、アンジュルムの魅力はなに?って聞かれた時にみんな口を揃えて個性豊かなところ!って答えるのほんまに個性豊かなのか???って思っていたのですが、モードな衣装をしっかり着こなす今回の特集で個性の強さと顔の良さをガツンと示してくれました。疑ってごめんね。

特に船木結ちゃん&笠原桃奈ちゃんのスタイリングと大人っぽい表情が好き。一般人がしたら絶対に面白くなってしまうこのファッションとメイクを自分のものにしてしまう二人のオーラはさすが。

 

一番印象に残ったのは、アンジュルムのメンバーが、衣装を「よろい」「武装」「自分をさらに強くしてくれる存在」と表現していたこと。現実の街には馴染まない素材や色彩で非現実の世界に彩りを添えてくれる衣装。偶像であるアイドルにとって、街中では着ることのない特別な服を纏うことがどれほど大切なことなのか思い知らされる。

 

衣装って、映画や舞台や楽曲など色々なものの世界観を表現しつつ、演じたり踊ったり歌ったりした時に動きを邪魔せず綺麗なラインを崩さない機能性がある。

一見ゴテゴテと無秩序に見える装飾のついた衣装でも、デザイナーやパタンナーが1ミリ単位でシルエットの見え方、動いた時の布地の広がり方を計算して作っていたりして、衣装の製作過程自体が「美」なんじゃないかと思った。自由奔放に見えて、その計算が隠されているっていうのがかっこいい。

 

芸術というものは自分自身の世界の表出が基本で、右脳的、感覚的な行為だ。だけど衣装のデザインやスタイリングは、例えばアイドルの衣装だったら楽曲への理解、メンバーの内面や身体への理解が必要不可欠で、それってすごく左脳的、論理的な営みでもあると思う。

 

夏ハロ2011で虫のコスプレしてド派手な触覚を振り乱しながら祭りだわっしょい!さあさ盛り上がれ〜わっしょい!わっしょい!わっしょいわっしょいわっしょいわっしょい!!って歌ってる意識低いやつが好きだった私だけど、計算され尽くされた衣装のことも好きになった。

激ダサトンチキ衣装愛好家としては負けた気分。

 

でもよく考えたら、一見意味がわからないアンジュルム糸島distanceのピエロ衣装とかもメンバーの雰囲気やビジュアルを引き立てるように試行錯誤して作られたものなんだろうなと思う。

例えば相川茉穂ちゃんの1人だけ目立つツノ付きの帽子は、手足がすらっと長くて不思議ちゃんな彼女じゃないとかぶりこなせない、まさに彼女のためのデザインだし、前身頃しかないベストみたいなやつ(前身頃しかないベストみたいなやつとしか言いようが無い)もストンと落ちたシルエットがサビの振り付けでは綺麗に揺れたりする。

オタクからは少々評判の悪いこの衣装も(私はピエロ衣装大好き)、デザイナーさんの思惑がいろんなところに散りばめられている。

 

え…?虫の衣装…?

虫のコスプレはさすがに飲み会の席とかで思いついた衣装であってくれ…

 

テニミュ3rd関立に見る赤也の内面

テニミュ3rdシーズン ファイナルロードの配信企画、やっぱり地区予選〜関東大会の投票1位は関東立海でした。

私も関立は全国編含めた全公演の中でも1番好きな公演です。曲と試合展開が好きなのは全氷、見応えあるのは全立、みたいに好きな公演はたくさんあるのですが、一本のミュージカルとして一番綺麗に纏まっていると感じるのは関立(特に3rd)です。

特に離れた場所にいる手塚や幸村の幻影が出てきて歌いながら仲間に寄り添うシーンは漫画やアニメではできない表現で、これぞミュージカルだな、と音楽の力を感じることができて好きです。

3rdの関東立海はよくわからない英語を喋るリョーマと対戦する赤也といい、すまんごめんソーリー♫のプラチナペアといい、アホで治安悪い試合がすごく楽しい。

その楽しい空気も幸村が登場するシーンではガラリと変わってシリアスなものとなり、公演中に何度も感情が揺さぶられます。幸村の切実な表情を見ると、真田や柳はもちろん、アホみたいな歌詞を歌ってる立海メンバーもそれぞれ幸村と立海に対する思いや覚悟を背負って試合しているということが伝わってくる。

そういう意味でも関立はスポーツの試合の盛り上がりを見せるというより人間ドラマに振り切った作品としてテニミュの中では異色な作品でもあると思うのですが、関立はただの感動ドラマじゃない。さっきも書いた通り、やっぱりテニミュは肝心なところでしっかり「アホ」を盛り込んでくる。

 

特に笑っちゃうのが、立海の2年生エース切原赤也が歌う《ルビー・アイズ》のサビです。

 

ルビー・イズ・レッド 

レッド・イズ・マイ・カラー

危険信号が見えないか

俺を本気にさせやがって

ルビー・アイズ

 

 

めっちゃ馬鹿じゃん…

初歩的な単語で構成された無駄のないSVC構文…

好きだ…

 

テニミュで演じるのが難しい役って何かなって考えた時に、スポーツ選手の役でありながら品格や高貴さを要求される幸村や跡部、普通の人間っぽいからこそ誤魔化しが効かない大石とかが思い浮かんだけど、やっぱり一番は赤也なんじゃないかなと思います。

赤也の何が難しいって、主人公のライバルキャラであり、獰猛でシリアスな役のはずなのに一歩間違えたらただのおもしろ厨二病キャラになってしまうところです。

 

まず赤也を悪魔にしちゃった許斐先生がすごい。普通、初期から登場して只者じゃないオーラを漂わせてるラスボス校の2年生エースという重要なポジションのキャラクターに「髪型をワカメ呼ばわりされるとキレて悪魔になる」っていう無茶苦茶な設定付けますか?強キャラとしてずっと温めてきたキャラクターにそんな無茶苦茶なギャグを背負わせますか?リョーマを除いた中学生でただ一人一本脚のスプリットステップを使える設定はどうした?

 

ルビー・アイズを作詞した三ツ矢先生もすごい。この曲、曲調はすごくかっこよくて一度聴いたら忘れられないくらいキャッチーで力強いメロディー。そのキレキレの曲に赤也の苦手科目は英語という設定を間接的にぶち込んでくるバランス感覚は誰にも真似できない。

 

そして凶暴で制御不能なキャラクターでありながら本質的には勉強と早起きが苦手なアホという設定を与えられた切原赤也を演じきる前田隆太朗さんの演技はいつ見ても感動します。

前田さん、歌唱力と存在感がすごい。関立の幕が上がって一番最初に観客が惹きつけられるのは、前田さんのソロパートである「俺は試合の流れを支配してお前を敗北に導く 支配の流れを止めるのはいつだって俺の勝利」の箇所なんじゃないかと思います。前田さんの表現力が生み出した好戦的な赤也は、ここで完全に舞台を支配している。

テニミュと言えば空耳をネタにされがちですが、前田さんは文脈上どっちでもありえる「試合」と「支配」を完璧に歌い分けることができるんですよ。そのハキハキとした力強い発声も赤也そのものだと感じます。

 

切原赤也というキャラクターは、見方によってギャグキャラなのかシリアスなキャラなのか全然変わるんですね。たぶん原作をサラッと読んだだけだと赤也はただのおもしろ磔ワカメ天使に見えると思う。

でも赤也のオタクとか立海のオタクって、勝利に執着するあまり自分自身や対戦相手を危険に晒す赤也の姿を悲痛な気持ちで見てしまう。それはOVA立海烈伝、関東立海、全国立海と物語の時が進むにつれてどんどん赤也の純粋な負けん気が暴力性へと変わっていくからです。Twitterやpixivを見ていると、赤也のオタクは新テニの天使化というギャグは無かったことにして、命を削りながらテニスをし続ける赤也の姿に夢を見ている人が多い印象もあります。私もどちらかと言うとそのタイプ。

だから前田さんの関東立海から全国立海への変わり身、ルビー・アイズの偏差値の低さから赤いデビルの治安の悪さへの変化は赤也のオタクを絶望させてしまう。

 

全国立海公演では、立海の選手の心象風景はあまり描かれません。観客は青学と立海の試合の行方を外から見守り、どちらかと言うと同じくギャラリーである四天宝寺の選手やライバルズと共に青学に肩入れしながら絶対王者立海を見上げる、という見方が多いと思います。

それに対して関東立海公演では青学と立海双方の回想シーンと心象風景シーンが繰り返し演じられます。この公演で強調されるのは、幼少期に思いを馳せる乾や九州にいる手塚の思いを胸に試合に臨む不二やリョーマといった主人公サイドの選手の感情よりもむしろ、敵校である立海が幸村の闘病と不在という試練に立ち向かうという物語です。

観客は三強に立ち向かう赤也の記憶や幸村に対して勝利の誓いをたてる真田の心情を覗き見ることによって、青学の選手さえも知らない立海の物語に没入することができるのです。

 

だから全国立海D2で人ならざる悪魔と化した赤也を踏まえた上で関東立海を観ると、英語が苦手で負けず嫌いで短慮で未熟な男子中学生という赤也の人間味溢れる部分を表現する意義が見えてくると思います。

 

赤也を演じた前田さんはザテレビジョンのインタビュー(https://thetv.jp/news/detail/194841/)の中で

 

赤目の時の赤也と、デビル化した赤也の違いについて考えて、自分の中ではデビル化ってどこかで冷静なところがあるんだろうなって思うんです。赤目がブチぎれた人間だとしたら、デビル化は冷静で、かつ冷酷。どっちかっていうとサイコパス寄りなのかなって。だからデビル化は一回落ち着いて、さらに内面から狂気を表現できたらいいなと思います。

 

と話していて、やっぱり関東で赤目になった時の赤也のキモって喜怒哀楽のある人間という部分なんだと思いました。

 

原作の漫画は試合以外のシーンは極力削ぎ落としながら試合展開の面白さで読者を惹きつけていて、キャラクターの内面的な部分はファンブックの情報などで明かされることが多いのですが、ミュージカルでは赤也の好戦的な性格に隠された無邪気さとか幸村の絶対性の裏にある仲間想いなところに焦点が当てられていて、私が3rd関立が好きな理由はそういう心情描写による部分が大きいです。

 

舞台の上の王子様達は許斐先生が作り上げた原型の上に上島先生の演出や三ツ矢先生の歌詞、キャストさんの解釈など様々なものが重なって、どんどん内面に広がりを増していきます。私の中で赤也はそれが特にわかりやすいキャラクターで、見るたびに赤也が好きになっていく。

前田さん演じる赤也だけでなく、歴代の赤也達もみんな個性的で、どの解釈も正解だと思っています。これから先のテニミュでも赤也の多面性をどんどん重ねて、解釈を広げていってほしい。

 

川村文乃ちゃんの演出力

2019年12月2日のBEYOOOOONDSの1stライブを最後に、何の現場にも行っていない。

疫病で多くの現場が消滅したとはいえ、ハロプロはメンバーがソロでJ-POPバラードのカバーを歌うコンサートを開催してくれているのだけれど、ハロ曲を披露しないコンサートに行く気は起きなかった。

 

メンバーのパーソナリティをまるごと愛したり、現場に行って応援するという行為自体を楽しんだりするのが世間一般のドルヲタのイメージな気がするけど、私はどちらかと言うとハロプロ楽曲の世界観や、歌唱やダンスといったパフォーマンスそのものが好きなタイプで、推しが歌ってるんだったらなんでもいいと思えるタイプのオタクではない。

 

そういう訳でハロプロ現場から1年近く離れていたのだが、私の推しである川村文乃ちゃんのバースデーイベントの配信と文乃ちゃんが企画した特番が連続で降ってきて、久しぶりに推しを浴びた。

 

文乃ちゃんは、歌もダンスもビジュアルもとにかく尖っていたアンジュルムの中では珍しい正統派のアイドル。女児向けアニメのヒロインみたいに華奢でキラキラしていて、甘い声を持った女の子だった。少し未熟でかわいいイメージの7期、8期メンバーが加入した今ではそこまで異色なわけじゃないけど、文乃ちゃんが6期として加入した当初は特にアンジュルムの戦闘力が高い時期で、きゅるんとした文乃ちゃんの存在はすごく目立っていた。

 

自他共に認めるスキル厨(メンバーの握手対応やブログなどにあらわれる人間性より先にステージ上での歌唱力やダンススキルに魅せられて推してしまう)だった私は加入当初そこまで文乃ちゃんに注目していたわけではなかったのだけど、現場に通って、帰り道にメンバーブログをチェックして、を繰り返しているうちにいつのまにか文乃ちゃんの豊かな感性に惹きつけられていった。

 

文乃ちゃんは特別歌やダンスの技術に優れているわけではない(もちろん文乃ちゃんが下手なわけじゃなく、生歌至上主義体育会系アイドルのハロメンの中にいると目立つ存在ではなかったというだけだ)。でも彼女は楽曲の世界観を演出するのがとにかく上手い。竹内朱莉ちゃんや室田瑞希ちゃんみたいに声量もダンスのキレもある派手な先輩達がパフォーマンスをリードしていたアンジュルムの中で、文乃ちゃんはいつも繊細な感情を表現していた。歌詞の内容に合わせて指先や視線の細かい使い方を工夫したり、少し不安げな声、夢見がちな声で歌ったり、文乃ちゃんがステージに立つのを見るたびにその感受性の豊かさと表現力に魅了された。

 

文乃ちゃんはステージ上での表現力が卓越しているだけじゃなくて、そのステージ上でなにを見せるか、構成を組み立てるところから既に独自の演出力を発揮している。アンジュルム加入から約1年後の2018年夏に開催された名古屋ミッドランドスクエアシネマでのバースデーイベントでは文乃ちゃんらしい可愛い楽曲を連続で披露し、本人が組んだセトリにも個性的な演出が光っていた。

特にセンスが良いなと思ったのがスマイレージの《天真爛漫》とタンポポの《恋をしちゃいました!》。

《天真爛漫》には「映画の間 手とか握りたいけど 汗をかいたりしたら 恥ずかしいじゃない」、《恋をしちゃいました!》には「ラーメンを食べました(食っちゃった) 映画にも行きました(行っちゃった) 緊張で覚えてないよ」と、歌詞には共通して「映画」というワードが含まれていて、文乃ちゃんも実際に「映画」という歌詞と同時に背後のスクリーンを身振りで指し示しながら歌っていた。文乃ちゃんは映画館をライブ会場にするという珍しいイベントを利用して、あたかも推しとおたくが映画館という空間を共有しながらデートを楽しんでいるという幻想を作り上げてしまったのだ。発想が天才か?

 

それから2年後の2020年バースデーイベント。疫病のせいで本来の誕生日からは2ヶ月以上遅れた9月25日、丸の内のお洒落ライブレストランであるCOTTON CLUBで開催された。関西在住の私は現地に行くことが叶わずファンクラブサイトの配信で画面越しに見ていたのだが、COTTON CLUBには数年前に岡井千聖ちゃんのソロライブを聴くために行ったことがあるのでそこがお洒落空間であるということは知っている。

 

文乃ちゃんが選曲したのは、Juice=Juiceの《素直に甘えて》やモーニング娘。の《シルバーの腕時計》のような2年前とは打って変わってしっとりした大人っぽい楽曲が中心。川村文乃と言えば甘い声の正統派アイドル、という殻を破ったようなセトリだ。そして文乃ちゃんは今回もCOTTON CLUBという空間を利用してきた。

文乃ちゃんはイベント中のトークで、山手線が通る東京駅に近い会場だからCHIKA#TETSUの《高輪ゲートウェイ駅ができる頃には》を選曲したと話していたのだが、私はカントリー・ガールズの《待てないアフターファイブ》を選ぶセンスにも感動した。以下、歌詞の一部を引用。

 

恋は待てない
ひとり アフターファイブ
あふれるばかり 靴・服・欲しいもの
安心だけ品切れ
あなたが持ってきて どっさりと

なんも食べてない
ひとり アフターファイブ
「愛してる」ではお腹は満たされない
電話も出てやんない
いまどこなのかって?
いつもの、そこらの、どっか

 

 

会場がある東京駅・丸の内って、いわゆる丸の内OLがブランド品を纏った綺麗な身なりで働いている洗練された街というイメージがあって、アイドルとして更なる成功を目指すため高知から上京してきた文乃ちゃんにとっても憧れの街なんじゃないかと思う。

私も地方の出身だから、岡井千聖ちゃんのライブで初めて丸の内に足を踏み入れた時には、東京駅の「よくテレビで見る有名な茶色い側の出口」を見て、ああ、ここがあのお洒落な街丸の内なんだ、って感動したのを覚えている。

 

《待てないアフターファイブ》に「丸の内」なんてワードは一言も出てこない。でもこの曲は文乃ちゃんの演出力と繊細な表現力によって、キャリアも靴も服も手に入れながらも満たされない思いを抱えた丸の内OLがどこかに存在している、そんな街の匂いを感じさせる曲になってしまう。しかもこのバースデーイベントは金曜日の17時開演。そこまで文乃ちゃんが計算していたって考えるのはおたくの妄想になってしまうけど、これ程までの演出力を持つアイドルが他にいるだろうか。

 

コロナ時代でなかなか実際の現場に行けない状況で、文乃ちゃんはCOTTON CLUBという空間を味方につけている。イベント後の文乃ちゃんのブログでも最初の3曲(《明晩、ギャラクシー劇場で》、《素直に甘えて》、《待てないアフターファイブ》)はCOTTON CLUBの雰囲気にも合うショーっぽさを目指したと書いていた。

 

文乃ちゃんの感性は、選曲にも歌唱にもダンスにも、あらゆるところにキラキラ輝いている。

2ヶ月遅れだけど、お誕生日おめでとう。

いつまでもキラキラしちゅう文乃ちゃんでいてください。

 

 

テニプリにおける「悪」とはなにか-テニミュの歌詞から考える氷帝と立海

私がテニプリにドハマりしたきっかけは、ミュージカル『テニスの王子様』3rdシーズン全国立海公演の無料配信でした。テニプリ、歴史が長い有名作品だしなんとなく知ってはいたけど、跡部景吾というキャラクターの人気がとんでもなくて、テニスコートを舞台に超能力バトルが繰り広げられていて、なんや知らんけど世界観がむちゃくちゃでぶっ飛んだ作品なんやろ、と思っていた。でもこの舞台を見て抱いた感想は、そういうぼんやりしたぶっ飛びテニプリ像とは全然違って、テニスに縋りついた幸村が生意気な中学一年生に負けて胸が苦しい、なんなんやこの辛い物語、というものでした。もちろん五感を奪われてもなおテニスをあきらめないリョーマの姿も感動的なのですが、終始潤んだ瞳でラケットを振り続ける立石俊樹さん演じる幸村はあまりにも儚くて、その真摯さにより強く感情移入したのを覚えています。その後しばらく経って、原作の許斐先生が公式ファンブックの10.5巻でリョーマを悪人と評し、テニプリ「悪人がさらなる悪人を倒す物語」と語っているのを知り、全立初見時に抱いた感情の正体がわかりました。

テニプリファンから怒られそうですが、許斐先生の発言を踏まえてテニプリとは青学と越前リョーマが他校という「悪」を倒す物語であるという前提でテニプリテニミュを考えたいと思います(テニプリキャラクター=悪人と言っているのではなく、キャラクターが内面に負の要素を抱えていて、それをリョーマに打ち破られる物語の構造があるという解釈をします)。

 テニスを楽しむという「善」

テニプリの主人公である越前リョーマは「友情・努力・勝利」を標榜するジャンプ漫画の主人公としては異色な、クールで天才肌の少年です。たしかに生意気で無礼な態度は悪人としての要素を持ち合わせていると言えます。

ではリョーマが倒す「さらなる悪人」とは誰を指すのかというと、他校の対戦相手達であり、ミュージカルの全立後編で重要な役割を果たしているライバルズです。毒舌なぼやきを連発する伊武やテニスに真剣に向き合わない亜久津、他校の顧問にボールをぶつけて病院送りにする比嘉中に所属する田仁志はわかりやすい悪役と言えますが、日吉、真田、跡部の「悪」は彼らに比べてわかりにくい。彼らの、そして彼らが属する氷帝立海の「悪」の側面について今回焦点を当てたいと思います(こう考えると純粋な不二弟はライバルズの中で異色だなと感じます)。

 

まずテニプリ世界における「善」(=「悪」の対概念)を定義したいと思います。それは、「テニスを楽しむ」ことです。テニスを楽しむことは作品世界における究極奥義である天衣無縫の極みにつながるものであり、楽しむことこそが強さであるということは作品の最終的なメッセージでもあります。主人公であるリョーマは「悪人」であると同時に、この「善」をもってして最後の敵である幸村に勝利します。

 

ライバルズは基本的に主要校から一人ずつ代表が出ていますが、六角と四天宝寺からは出ていない。これは過去の試合の流れの都合上リョーマまで試合が回ってこなかったからなのですが、私はここに深い意味があると思っています。「顧問のオジイを筆頭にテニスをエンジョイする」六角やお笑いテニス部の四天宝寺は楽しいテニスをモットーとしているために、倒すべき「さらなる悪人」が存在しておらず、リョーマの出番がなかったのではないかという点です。テニスの王子様の元々の構想では四天宝寺遠山金太郎という底抜けに明るいキャラクターを主人公に据え、リョーマをライバルとして登場させる予定でした。遠山金太郎はライバルであるコシマエを打ち負かすことを目標に掲げていますが、そこにドロドロとした執念はありません。彼はお笑いテニス部四天宝寺の校風を体現したキャラクターであり、リョーマとの試合を心から楽しみ、天衣無縫の極みを使うこともできます。金太郎は純粋な「善」であり、六角の選手もこうした「善」の要素を強く持っている。そのためライバルズ(=悪人であるリョーマが過去に倒したさらなる悪人)に六角や四天宝寺の選手は加わっていないのだと考えられます。

 全国出場校の立ち位置

全国大会で青学が戦った四校は比嘉、氷帝四天宝寺立海ですが、この四校の位置付けについて考えたいと思います。前述したとおり四天宝寺は楽しむテニスをしているという点において他の三校とは異なり、「善」を象徴する学校です。それに対して明確な悪役なのは比嘉。許斐先生はミュージカル3rdシーズン比嘉公演DVDのパンフレットにおいて「比嘉は唯一のヒール校」と発言しています。この発言は、ただ勝つだけじゃ面白くないという理由でわざわざ手塚との試合を長引かせた跡部景吾率いる氷帝や、悪魔と化して対戦相手を半殺しにする切原赤也を擁する立海はヒール校として描かれているわけではないということも示しています。

 

氷帝立海には共通点が多く、青学と関東大会と全国大会で二回対戦している点、自らを「王」と称している点、プライドの高さが強調されている点などが挙げられます。リョーマに倒される「悪」ではあるものの明確なヒールではない二校の特色を分析したいと思います。

ミュージカルの歌詞から氷帝立海を読み解く

出番の多い全国出場校のうち比嘉と四天宝寺についてはすでに述べたので、氷帝立海の「悪」についてミュージカルの歌詞から考察します。もちろんミュージカル曲を作詞している三ツ矢先生の意図と原作の許斐先生の意図は完全に一致するものではないし、どうしても恣意的な解釈が避けられないのですが、これ以上にライバル校の心情をわかりやすく表現しているものはないので今回分析対象とします。

 

氷帝曲】

氷のエンペラーⅡ

REMEMBER HYOTEI

氷点下の情熱

凍てつく者の熱き思い

俺たちはブリザード

氷の刃

(計6曲)

 

立海曲】

非情のテニス

お前ら…崖っぷちギリギリ

負けることの許されない王者

俺たちの辞書に敗北はない

降臨する王者

三連覇に死角なし

執念の焔

常勝立海

勝つことが使命

永遠のエンブレム

(計10曲)

 

いわゆる「校歌」と言われている楽曲を中心に、学校単位、チーム全員で歌っている曲のみを選出しました。ソロやデュエット曲、他校と一緒に歌っているもの、短縮版や、バージョン違いは除きます。また、学校単位で歌っているものでも《鏡の中の俺Ⅱ》や《神の子~デッドエンド》などの特定の個人を称える曲、氷帝の独自性を明確に打ち出しているわけではない(歌詞に他校が歌ったとしても違和感のない普遍性がある)《season》などは除外しました。新参オタクなので抜けている曲があったら教えてください。

 

まず学校別に多く使われている名詞を集計してみます。私はデータに激弱なので、ネット上で拾ってきた歌詞を片っ端からワードに張り付けて複数回使われた名詞を手作業で文章検索に掛けるという方法でカウントしました。不正確なところがあるとは思いますが、雰囲気だけでも示せたらなと思います(動詞、形容詞などは活用などの関係で集計が大変すぎるので今回は無視します)。

 

氷帝曲】

1位 俺達(「俺たち」も含む)39回

2位 氷帝(「HYOTEI」も含む)32回

3位 氷 27回

4位 エンペラー 14回

5位 ブリザード 13回

 

立海曲】

1位 俺達(「俺たち」も含む) 22回

2位 立海 16回

3位 勝利 15回

4位 お前 14回

5位 敗北 13回

 

氷帝立海ではそもそもの曲数が違う上に、関東大会で青学の前に立ちはだかった時の曲と他校にゲスト出演した際に青学へのリベンジを誓う曲では性質が異なるなどの問題があるので単純な比較は難しいのですが、頻出語彙を見比べるとおおよその雰囲気はつかめると思います。ただ、氷帝曲はサンプル数が少なすぎてランキングからわかる傾向はあまりありません(例えば「ブリザード」は《俺たちはブリザード》にしか出現しないにもかかわらず5位にランクインしています)。

 

氷帝曲と立海曲に頻出する語句を抜き出すと、最も多用されている語句は「俺達」と校名、つまり自分たちを称するものであることがわかります。3位以下を見てみると、氷帝では「氷」「エンペラー」といった自校の校名にまつわる語句が多用されるのに対して、立海ではとにかく勝敗に関する語句が多用されています(ちなみに6位は「掟」「常勝」「王者」が同率でそれぞれ9回出現しています)。これは氷帝が自分たち自身に誇りを抱いているのに対して、立海が勝利という事実のみに価値を感じていることの表れであるのではないでしょうか。

 氷帝の傲慢

立海が王者を名乗るのは文字通り全国大会を制した王者だからなのですが、氷帝が王を称する(《俺たちはブリザード》曲中であったり、そもそもの校名であったり)根拠とは何なのでしょうか。氷帝が青学に負けた後六角公演のゲストとして歌う《REMEMBER HYOTEI》の曲中では「We are still No.1」というフレーズが繰り返されます。しかしよく考えてみると氷帝は都大会では不動峰に負け、前年度の大会では関東大会準優勝、全国ベスト16と、まったくナンバーワンでも王者でもないわけです。この歌詞から察するに氷帝は勝敗に関わらず王者としてのプライドを持ち続けている学校であり(そこにダサさを感じないのはやっぱり氷帝がなんだかんだ熱くて泥臭い努力家の集まりで、部長の跡部の生きざまがかっこいいからだと思います)、全国を制したこと自体にプライドを持つ立海とは根本的に異なります。

 

氷帝は厳しい実力主義によってレギュラーが選抜されている設定があり、勝敗に対してシビアなイメージがありますが、意外にも氷帝曲の歌詞に「勝」というワードはほとんど登場しません。熟語に含まれるものや品詞の区別などすべて無視して「勝」という漢字のみをカウントすると、立海で57回(一曲平均5.7回)、氷帝で7回(一曲平均約1.1回)となり、有意な差が生じています。

 

むしろ氷帝曲に頻出するのは勝負と無関係な「カレイドスコープ」「彫刻」「陶酔する」「見とれる」などの芸術や美に関するワード、そしてオサレなカタカナ語です。立海曲に登場するカタカナ語は「プライド」「エンブレム」のように一般的な日本語文でも用いられるシンプルな語句なのですが、氷帝曲では「アイシーウェポン」「キラースーツ」のようなオサレで長いカタカナ語がしばしば登場します。このような語句は氷帝の誇りの高さやお金持ち感、そして何より笑ってしまうくらいのナルシシズムを示しているのですが、それは氷帝が多くのファンに愛される要因の一つであると同時に、作中で「悪」と見なされる傲慢さの表れでもあります。

 

ミュージカルの歌詞で強調されている氷帝の「悪」とは傲慢とナルシシズムでありリョーマと対戦した日吉の他の部員を見下すような不遜な態度、跡部の尊大さは自信家が多いテニプリのキャラの中でも特に目立つものだと思います。ただ、その傲慢さは単純な「悪」ではなく、傲慢さと表裏一体の自信は日吉にしろ跡部にしろ弛みない努力に裏付けられたものであり、お坊ちゃま特有の自己肯定感の高さには清々しさをも感じます。傲慢な敵を主人公が打ち負かすというのは定番すぎる物語の構造ですが、決して氷帝を嫌味なナルシスト集団で終わらせないのがテニプリの絶妙なところだなと思います。

 立海の勝利至上主義

立海曲の歌詞において勝敗に関する語句が頻出していることは前述した通りです。立海曲の歌詞では、勝たねばならない、誇りを守らねばならないというメッセージ以外は排除されているといっても過言ではありません。その中で《負けることの許されない王者》や《永遠のエンブレム》における幸村のソロパートは、友情について語っているという点で他の歌詞とは異質です。立海曲は幸村が関わっている時にのみ友情という情緒的な面が表現され、幸村が唯一無二のチームの核であることを示しています。原作では深く言語化されていなかった幸村を中心とした部の結束が、ミュージカルにおける立海の悲劇性を増幅させているのではないでしょうか。

 

テニプリにおける「善」とは「テニスを楽しむ」ことであることははじめに述べましたが、全国立海戦ではその「善」の希求というラストシーンの為にS3~D1までが存在していると言っても良いと思います。幸村が真田に真っ向勝負を捨てさせるS3、柳が後輩を操り旧友を病院送りにするD2は、立海は勝利のために手段を選ばない集団であるということを読者に強く印象付けるための試合でもあります。

 

試合に負けた部員を容赦なく殴る真田は明らかに正気の沙汰じゃないし、ミュージカルの《神の子~デッドエンド》で幸村を囲んで跪く真田以外の部員も明らかに様子がおかしい。立海の本質はこうした狂気にあるのですが、その狂気を前面に押し出すために立海には監督が登場していません。全国出場校では青学の竜崎先生、比嘉の早乙女監督(テニプリの中で一番強烈な悪役だと思います)、氷帝の榊監督、四天宝寺のオサムちゃんが登場しているにもかかわらず立海の監督だけが描かれていないのは、意図的に描いていないとしか考えらないと思います。明確なヒール校である比嘉の暴力性は早乙女という大人に原因を負わせることによってコメディ的なところに落ち着いているとも言えますが、それに対して、立海の暴力性はラスボスという立場上コメディになってはいけないし、大人が登場すれば立海の狂気も幸村や真田の絶対性も描く事ができなくなってしまう。

立海の「悪」とは自分たち自身が作り上げた無敗の掟が自分たちのテニスを締め付けることであると思います。作中最後の試合でリョーマが常勝という狂気に囚われた幸村にテニスを楽しんでいるか問う場面はあまりにも無神経で残酷です。この試合は「悪人がさらなる悪人を倒す」構図を最も端的に表していると言えるでしょう。

 

試合に負けた部員を鉄拳制裁し、関東大会決勝でリョーマに負けた自分を部員に殴らせていた真田は、全国決勝の最中幸村に背を向けリョーマの記憶を取り戻そうと力を貸します。ここに勝つために手段を選ばないという「悪」から解放された真田の姿を見ることができる一方で、幸村は最後まで勝利のみに固執したままリョーマの天衣無縫に敗北します。原作ではリョーマと幸村の試合後にJASRAC申請中の文字と共にオリジナル曲が流れる衝撃的なラストを迎えますが、幸村が越前に握手を求めるコマと真田が盾を受け取るコマ以外に敗北した立海の様子は描写されず、テニスを楽しめない幸村が救済されるのは『新テニスの王子様』17巻で幸村がテニスができる喜びを力にイップスを克服するシーンまで待たなくてはいけません。

 

全国大会決勝で物語が完結するミュージカルでは、《頑張れ負けるな必ず勝て》の立海パートで幸村、そして立海の選手たちが救済されているのではないでしょうか。立海全員で歌う「滲む悔し涙のきらめき忘れないで」という歌詞において、初めて立海は敗北という過去を受け入れ、肯定できるようになります。メタ的な視点で見れば、キャラクター同士が送り合うメッセージであると同時にテニミュから観客への最後のメッセージでもあるこの曲に立海の前向きな感情を乗せることによって、キャラクターとキャストの成長を描く二重構造のテニミュの物語がハッピーエンドを迎えるとも言えます。

これまでの立海曲では勝利以外のことに価値を見出すことのない立海の姿が描かれており、《勝つことが使命》の「負けるのは恥 屈辱でしかない」という歌詞はその典型です。この歌詞は氷帝が《氷点下の情熱》で「辱めは明日への糧」と歌っていたこととも対照的であり、やはり氷帝立海の差別化は勝利と敗北に対する価値観によってなされているように感じます。両校の歌詞の特徴を見比べることで、三ツ矢先生が表現しようとした学校のカラーが見えてくるのではないでしょうか。

 おわりに

私が初めてミュージカルの全国立海を見た時に感じた幸村への同情と言いようのない苦しさは、全国氷帝跡部リョーマに髪を剃られたことにブチ切れた雌猫達の感情と共通するものがあると思います。確かに、橘妹を執拗にナンパし樺地ポケモントレーナーのごとく顎で使い桃城を馬鹿にする初登場時の跡部は紛れもない嫌な奴だし、勝利に固執するあまり他のすべてを投げ捨てた幸村は悪人なのかもしれません。でも気絶した人間の髪にバリカンを当てたり、病から立ち直ったばかりの人間に「テニス、楽しんでる?」と挑発したりするリョーマリョーマでなかなかえげつない。傲慢でナルシストな敵や勝敗に執着する敵を打ち負かす主人公というのは物語の王道であり、勧善懲悪のカタルシスを生むものでもあるのですが、テニプリにおいてはそうした二項対立にねじれが生じています。

 

少し話が脱線しますが、主人校ということもあり基本的には光属性っぽいキャラが多い青学の中で一番負の側面が強調されているキャラクターは不二だと思います。勝負に本気になることができない不二はテニスにスリルを求めてしまう天才肌のプレイヤーであり、努力や情熱といった少年漫画らしい明るい性質とは離れたキャラクターです。そしてリョーマと同様に、不二が打ち負かした対戦相手は、弟の祐太を都合よく操ろうとした聖ルドルフの観月、ラフプレーを繰返す赤也や詐欺師の異名を持つ仁王など、悪人としての側面を持つ選手が多いのです。

 

テニプリは登場人物の数が多い作品にもかかわらず、どの学校・キャラクターも大きな人気を獲得しています。それは、敵役に対してあえてリョーマや不二といった「悪人」をぶつけることで、キャラクターの善悪を二分せずそれぞれの正の側面、負の側面を上手く読者に見せているからではないでしょうか。もし遠山金太郎が楽しいテニスで「悪人」を打ち負かす物語だったならば、テニプリのキャラ人気はこれほどまでに絶大なものとならなかったと思います。

 

シュールギャグ漫画でもあるテニプリをこのような解釈で読み解くのは野暮な気もしますが(新テニでテニスプレイヤーが海賊に刺されたり、跡部が全裸になって局部にモザイク掛けられたりしてることを考えると、もう善悪や跡部のキャラクターを真面目に論じることはできません)、原作漫画やミュージカルで描かれる立海は確かに重くて苦しい感情を背負っていて、テニスのみならずあらゆるスポーツや仕事、趣味、その他の営みに通底する「結果を出すことと楽しむことの二律背反」について考えさせられます。ミュージカル3rdシーズン全国立海後編における《天衣無縫の極みへ、たどり着け》で立石さんが歌う以下のパートは、辛い闘病生活を乗り越えた先でテニスを楽しむリョーマに追い詰められた幸村の苦しみが痛いほどに伝わってきます。

 

暗中模索から答えを導いたな

これは命を懸けた戦い

試合は勝利のためだけにある儀式

勝って勝ち続けてまた勝って

その結果のみが俺の生きる証

 

立石さんがこのシーンで見せる演技力、歌唱力は本当に圧巻で、映像でしか見れなかったことが悔やまれます。もっと早くテニミュに出会って生で観たかった。

 

この記事をフォルダで眠らせている間に氷帝vs立海の新作アニメ情報が公開され、ミュージカル『テニスの王子様』4thシーズンの発表もありました。3rd全立をきっかけにテニプリに出会えてよかった。亡霊にならずに済みそうです。